こんな出会いもいいではないか


「こら。こんなところで何してる」
背後で唐突に聞こえた声に、果恵かえ は飛び上がらんばかりに驚いた。
しきりに眺めていた桜の樹木を勢い背にして、開いた視界の先にいる人物に目を丸くした。
家持章仁いえもち あきひと。 確かそんな名だったはずと、誰何する。
数メートルほどの距離を開けてこちらを呆れた表情で眺めているのは、 果恵が所属していた高校の社会科教諭だった。
「えーっと、花見ですかね」
へらりと笑って、そんなことを言ってみる。
でまかせもいいところで、相手の表情が尚更呆れたものになった。
それはそうだろう。桜の木の蕾はまだまだ硬く、その膨らみの先にあるすぼまりの辺りだけが 鮮やかな桜色だ。
これで花見とは、言い訳甚だしいということだろう。
瞬間吹いた強い風に身を竦めながら、果恵の心中は混乱していた。
心なしか、目の前に佇む社会科教師の距離が数歩近づいている気がするのだが。
「いけませんかね、休み中に学校来ても」
ついでに制服を着ずに校内にいることがいけないのだろうか。
(そんなこといったってなぁ)
困ったとばかりに眉を寄せたいのは果恵なのに、何故かあちらさんがまさにその表情をして 腕を組んでいた。
「アホか。不法侵入で訴えるぞ、卒業生」
「……はぁ、まあ。確かにその通りなんですけど」
言うべき言葉が見当たらず、果恵ははしたなくもあんぐりと口を開けた。
家持教諭の言葉通り、果恵はこの高校をつい二週間ほど前に卒業した。
二月の末で、ちょうど国立大学の面接日と重なり卒業式を欠席した生徒も何人かいるにはいたが 、果恵はいたって普通のレベルの大学に進学を決めていたため何事も無く出席し、卒業証書片手に 三年間通い続けた学び舎から旅立った、ということになっている。
家持の言うとおり、卒業生であるから制服はもう着れない。
生徒専用の裏手の通行門を何気なく通り、かといって職員室に挨拶へいくわけでもなくこうして 第二グランドの隅で桜を眺めている自分は、確かに不法侵入者なのかもしれない。
それが例え、二週間前まで三年生として在籍していたとしても。
確かに家持のいうことは正しかった。だけれども、果恵は戸惑いを覚えて彼の顔をまじまじと見遣る。 それに気付いた教師が、眉をしかめてまた一歩歩を詰めた。
「なんだ、どうかしたか」
「…いえ?ただ、先生って記憶力いいなぁって思って」
「おまえの記憶力がなさ過ぎるんじゃないのか、 横峰果恵よこみね かえ
「ますますすごいですね、先生」
果恵はごく普通の学生であったから、まさかクラス担任も教科担当もしてもらったことがない 教諭が自分のことを覚えているはずもない。
そんな風に高をくくっていたから、余計に驚いたのだ。
フルネームを諳んじられるほど相手に認識されているとは努々思わなかった。
(なんなんだ、この人は)
戸惑いながらも不審さを覚えた果恵の思いは、おそらく相手に筒抜けだったのだろう。
家持は教師にあるまじき意地の悪そうな笑みを作った。
「おまえ、この時期になるといつもここに来て桜の咲き具合を確認してたろ」
何故それを知っている。
浮かんで来る言葉といえば、それくらいだった。
果恵は桜の木が特別好きというわけではない。だけどもこの桜の木はなんとはなしに果恵の心に 住み込んだ。桜の花が咲き散るまで、いつも気になって見に来ていたのだから、反論は 許されなかった。教諭の言う事は先ほどからいちいちその通りで当惑する。
「―もしかして、職員の間で有名だったりしました?」
誰にも見咎められる事も無かったので気にしてはいなかったが、春休みの間も学校にいる教師達 にとっては、果恵の行動は奇行以外の何ものでもなかったのかもしれない。
卒業したとはいえ 自分の想像に気恥ずかしくなった果恵に、家持は息を吐くような笑みを零して首を横に振った。
「いや。ただ社会科準備室の俺の席から、丸見えなんだよここ」
「はぁ」
「それで俺は、期末テスト終わった頃から休み入ろうが年によっては新学期が始まろうがせっせと 桜眺めに来るかわった生徒を見つけたわけだ。なかなかに興味深かった」
「…それはどうも?」
なんと答えて言いかわからずに、果恵はとりあえず礼を述べた。自分でもどうしてその言葉なのかと 思ったが、それ以外思いつかなかったのだからしょうがない。
返答に窮したうえでの苦し紛れのその一言に、家持の眉がピクリと上がった。それはまるで、 おもしろい物を見つけたとでもいっているかのようで、いやそれよりもいつの間にこんなに距離が 詰められていたのかと果恵はもう口をただ開けて真正面に堂々と発つ社会科教師を見上げるしかない。
「で、諸橋もろはし教諭 により名前を教えてもらってだな。毎年せっせと通ってくるおまえを上から 観察させてもらってた」
諸橋教諭、知ってるだろ?と言われて、果恵はとっさに頷いた。忘れるわけがない、果恵の高1の 時の担任だった。いくら果恵がいたって普通の生徒の一人だっとしても、担任の目は欺けない。
「今年はさすがにもう見れないだろうと思ったら、のこのこやってくるもんだから。これも 何かの縁だろうと思って。ならいっそ上からじゃなくて傍まで接近してみようと」
「で、降りてきたってわけですか」
「そう」
「わざわざ?」
「わざわざ。これもご縁だと思って」
呆気にとられたまま、果恵は目を丸くした。目の前の社会科教諭はこちらの驚きなど 関係ないとばかり に、のんびりと背伸びをしながら果恵の横に並んだ。
「まあそう気にするな。仲良くいこうや」
「えっと、あの。ものすごく気にするんですが」
こちらはいたって大真面目で、心の底からの気持ちであるのに、向けられた本人は微かに驚いた顔 をして、それから口を開けて笑い始めた。
(わ、笑われてしまった…。何故に?)
そもそもこの場にいるのは本当にあの家持章仁教諭だろうか。静かながらも確かに笑っている 教師を前に、果恵はどうしようもなく途方にくれた。
果恵の知る家持章仁とは、果恵と同じくどこにでもいる普通の社会科教師だ。
年の頃は二十代後半、正確な年齢は知らない。シルバーフレームの眼鏡が妙に似合っていて、 肝心の授業の評価も可もなく不可もなくと本当に至って普通の高校教師 だ。暗すぎるわけでもなく、破天荒 すぎるわけでもない。どちらかといえば落ち着いているといえば、一番しっくりくるだろうか 。そういえば、家持の授業を受けていた果恵の友人 は彼の事をクールと評していた。
そんな彼が確かに目の前で可笑しそうに笑っている。果恵にはもはやわけがわからなかった
「っく。おまえおもしろいな」
「えぇっと、むしろ面白いのはそちらさんの方かと」
呆然とした表情のままポツリとこぼれた果恵の言葉に、目の前の教師はまたも笑う。
彼が笑うたびに、果恵の頭は混乱をきたした。いまだ緩まったままの口元を惜しげなく 晒しながら、どうやらクールらしい教師は果恵を見下ろしている。その目は必要以上に 楽しそうだった。
「予想以上だ」
「何がでしょうか」
いや、そもそもあなたは何しにここまで来たのですか。
果恵の頭一杯に浮かんだその言葉を、再度正確に受け取って家持はニコリと笑った。
全然クールじゃないその微笑みは無邪気そのものであるはずなのに、果恵の背中にはどうしようもない 悪寒が走る。
思わず一歩下がれば、背に桜の幹が痛いくらいに張り付いた。同時に、家持氏の笑顔が 深まっていく。
「はじめてみた時に思ったんだよな」
「な、にを、でしょうか」
果恵の問いかけに、得体の知れぬ社会科教師はくつりと喉で一つ笑った。
「おまえとはいい友達になれそうだなって」
「友達、ですか…。先生と?」
「ああ。生憎と俺はそういった勘が恐ろしくいいもんでね」
「―――さいですか。でも私はあなたの生徒って奴なんですが」
そこのところを理解してるんだろうかと果恵は思う。生徒相手に友達になろうと呼びかける教師は ドラマの中で見た事があるが、その場合と今のこの状況はあまりにかけ離れている。ついでにいえば 意味も違う。
気が抜けたような調子でなんとかそう返した果恵を待っていたのは、やはり多分に呆れを含ませた 家持の言葉だった。
「俺はお前の担任でもなければ、教科担当でもなかっただろ」
「…ええ、まあ」
「なら別におまえの先生ってわけでもない。そもそもお前と俺にその定理は無意味だろうが 。なあ、卒業生?」
絶句。果恵の現在の状態は、まさしくそれであった。
放心しているに近い果恵を差し置いて、彼女の友人志願者である家持は少女にまた一歩近づいた。
「ま、よろしくな。友人」
何がよろしくなのだろうか。いつの間に自分はこの男の友人という立場になったのだ。
果恵には趣味の悪い冗談としか思えない。呆然とした果恵の顔を覗き込みながら、 いっそ爽快なほどクールのイメージを脱ぎ捨てた男が笑った。
「これも桜が結んだ縁ってことで」
そんな奇妙な縁が、今後ずるずると続く事になるとは、果恵には想像もつかなかった。




 (2007年3月13日)

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