その音を遠ざけて


ヒップホップ、ラップにバラード、クラシック。
ジャンルもばらばらなら年代なんて関係なしで、あげくに邦楽洋楽入り乱れ。
瀬良知美の思い人竹川佳幸は、音楽というものに節操が無い。



「つーかーれーたぁ!昼休み直後の体育ってだけで最悪だったのに、砲丸投げってハードすぎ だって」
「………」
「あー、明日絶対筋肉痛だよ。明後日きたらどうしよ!?まさか、そこまで衰えてないはず!」
部活の帰り道、夕闇が迫る住宅街に知美の声のみが響いている。
肩を並べて歩いている相手の耳の穴 には、シンプルなシルバーのイヤホンが耳栓よろしくふさがって いて、そこから時折透き通ったソプラノのメロディーが知美の元まで漏れ聞こえてくる。
どうやら今日のBGMは数年前に流行った女性がボーカルのバンドらしい。
昨日はソプラニスタのアンサンブル、一昨日はアメリカのカントリーソングだった。
(明日は何を聞くのかな)
見事にバラバラのチョイスは、もはや毎度すぎて突っ込む気にもならない。
あいかわらず音楽に全神経を集中させた佳幸をちらりと見上げて、知美は微かにため息をついた。
知美と佳幸はそれぞれ違うクラスの違う部活に入っている、ただの同級生である。
共通点はたった二つ。
クラブが終わり下校する時間がいつも同じということと、帰る方角が一緒ということ。ただそれだけ。
いつからこうして一緒に帰るようになったかはもう覚えていないが、初めて見かけたときから 佳幸は今と同じイヤホンをして音楽を聞いていた事はそれはもうはっきり覚えている。
それまで知美は佳幸と面識がまるでなかった。 ただ彼の存在は無口で無愛想というトレードマークで学年に知れ渡っていたから、 知美にとっては軽く知っていた程度で。
だから興味を引かれたのだ。ほとんど変わらないけれども、 口元と目元が少しだけ和らいでいる彼のその表情に。
話しかけてみようと思い立った。知り合いになりたいと本能的に思ったのは、もう既に 恋に落ちていたからだろうか。
そんな事はよくわからないのだけれども。
黙々と音楽を聴く佳幸の横で知美が喋り倒して帰路に着く事は、恒例になっていた。
知美の空回りな声に対して相手は何の反応を示さない。ただ歩調だけはあわせてくれているが、 本当にただそれだけだった。
知美自身、自分の存在が彼にとってどうでもいいものなのだろうということは理解している。
どれだけ声を張り上げて語らっても、彼のあの無機質なシルバーのイヤホンがことごとく 知美の言葉を跳ね返し、結果彼はいつも無限に広がる音楽の世界に心置きなく没頭していられる。
いい加減虚しくなる。それなのに話しかけることをとめられない自分が知美自身鬱陶しくて仕方な かった。
女々しい事をしていると思う。いくら自分が彼に思いを寄せているとしても。
今日もそんな思いと葛藤しながら、知美の声は空元気に次々と話題を探す。
「今日は比較的新しいの聞いてるんだね。その曲、確かCMに使われたでしょ。 携帯かなんかの」
ためしに彼が今まさに聞いている歌手の話でふってみる。いつも試みていることだったが、やっぱり 成果もいつもと同じ。彼はこちらの存在など気付いていないかのように、歌だけに耳を傾けている。
ときおりゆるりとあがる口角とさがる目尻を目ざとくみつけて、知美は切なさに胸が締め付けられる ようだった。
(一度だけでいいから)
どんな愛想ないものだっていい。返事をしてくれたらどれだけ嬉しいだろう。
言葉というものはキャッチボールがあるからこそ楽しいのに。 知美の言葉に彼が明確に返事を返してくれた事はほぼ無いに等しい。 何を考えているのかわからないつりあがった瞳から彼の感情を読み取れるほど、佳幸の ことを知美は知らなかった。
きっと彼の周りには音楽という壁があって、外界から彼を遠ざけているのだろう。いや、遠ざけら れているのは知美自身かもしれない。
知美は佳幸が気になり始めてから、音楽が少しだけ嫌いになった。何度いつもつけているその イヤフォンを剥ぎ取ろうと思ったか知れない。
だけれども、それができないのはわかっているからだ。衝動的な思いに駆られて彼にもう二度と 近づけなくなることを、知美は何よりも恐れていた。少なくとも、ちょっと前までは そうだった。
「ねえ、竹川君」
声に出していってみてから、改めて自分と彼の距離を知った。もしかしたら彼は私の名前すら知らない かもしれない。知っていたとしても、知美は彼から名を呼ばれたことはただの一度もなかった。
「竹川君、竹川佳幸君」
相手からの返事なんて期待していない。だからこそ彼の名前をなぞるように口ずさむ。
私のことなんて全然相手にしてなくて、音楽にしか目がなくて、音楽の傍でだけ 微かな微笑を見せる、竹川佳幸君。
「―佳幸君、佳幸佳幸佳幸」
いい響きだ。歌なんかよりもよっぽど、知美の心を和ませる音。同時に切なくなるもなるけれど、 それでも好きな人の名前というのは知美の心を鷲掴みにする。
「佳幸…佳幸君」
お願い、いちどでいいから。
これをもう最後にするから。
話を聞いて、返事をして。
音楽なんて聞いてないで。
「声聞かせてよ」
身勝手なその言葉は、やっぱり相手に届いてはいないのだろう。
ため息をつく。直ぐ目の前にある曲がり角で自分は左へ曲がらないといけない。
じゃあ、また明日。
それだけ早口に伝えて、知美はいつもより早く彼の元を離れる。
だから手首を掴まれて後ろへとひかれたときは、死ぬほど驚いた。
振り向いた先にいた自分の思い人はいつもより輪をかけた無愛想な顔でじっと知美を見下ろしていた。
まっすぐ相手に見つめられた事なんて今までただの一度もなかったから、知美はそれだけで 眩暈を覚える。
が、次の彼の一言で本気で失神しようかと思った。
「またあしたな」
「え、あ、え?」
無愛想な塊のようなその声。低くて、でもすこしかすれた響き。 初めて聞くといってもいい、竹川佳幸の声だった。
「―うん!」
あぁ、自分はなんて現金なのだろう。相手はまだ音楽に夢中で。こうして自分に話しかけてくれる そのときですらイヤフォンを離しやしないというのに。
(竹川君の馬鹿)
不意打ちでこんなことをされては、諦めようにも諦めきれないではないか。
現金にも舞い上がって力強く頷き、慌てたように自分ももう一度また明日と返す。
そのまま名残惜しくも立ち去ろうとした知美は今度こそその顔を真っ赤に染めた。
「それから、君はいらない」
「呼び捨てでいい」
「―――っ!!」
(なんで?!)
なんで聞こえたの?
呆然とした私をおいて、佳幸は歩き出してしまっていた。
遠のく彼の背中を見ながら、赤面した自分の顔を隠すように俯いた。
胸底から湧き上がるむず痒い気持ちを隠しきれず、頬をついに緩んでしまう。
(どうしよう)
事態なんて何も変わっていないのに、嬉しくて仕方ない。
声を聞けた。まっすぐと、自分に向かって話しかけてくれた。気まぐれでもそれがすごく嬉しかった。
(いつか)
いつか、もし彼と少しでも会話を交わすことができるのならば。
あのシルバーのイヤフォンを、外してくれるくらいになったのなら。
(告白しても、いいかなぁ)
余韻を壊さぬようにそろそろと動き出しながら、知美は 小さく微笑んだ。

 (2007年5月2日)

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