Tiny Sweeter ー未来のパティシエ奮闘記―


あり得ないって言うのはこういう男の事を言うんだ。悔しささえもかきけす衝撃の中でそ んな事を思った。


町のケーキ屋の末っ子として生まれた智耶は、父の背中に憧れて、いつか彼のあとを継ぐ のだと決めていた。上には三人の兄姉がいたけれども誰も家業に興味がないようだったか ら、内心ほっとしていたのに。

大好きな世界に突然飛び込んできた異端者の名を新井という。

「腹立つなあ、もう!」
勢いに任せて卵白をかき回す。力仕事のこの作業にはもってこいの力のぶつけようだが、 背後に忍び込んだ人影に気付けないほどに集中していたとは自分でも知らなかった。
「おいこら」
「うひゃあ!?」
真後ろから響いた声に奇妙な叫びをあげて、智耶は真後ろを睨みあげた。
こんなことをするのは、たった一人しかいない。そう、新井ただ一人だ。
「ちょっと、何するのよ!!ビックリさせないでくれる!?」
「智耶、なんて口の利き方だい」
咎めるその声は、新井にしては年老いていて智耶にとっては生まれた時から馴染んだそれで。
智耶はまずい所をみられたと冷や汗をかいた。
しれっとした顔をしてつったっている新井の傍に父親がいるだなんて想像だにしなかった。
「一将君はおまえより年上なんだから、そんな風な口を利いたらだめだろう」
「で、でもパパ」
言い訳なんてしたくないが、それでも取り繕うように声を出したのは、単純でいて子供っぽい理由である。
なんてことはない、大好きで尊敬もしている父親が新井側の物言いをするのが嫌なのだ。子供っぽくて何が悪い、私は高校二年生。まだまだ子供だ。いつもなら逆にもう大人だといっていたはずの言葉を逆手にとった 開き直りの考えは、恐らく父にはばれていない。ただし、その隣に不遜な様子で佇む男には筒抜けのようであったが。
「いいですよ、店長。智耶はまだ子供ですからね」
したり顔でそんな事を言われて、腹が立たないわけがない。しかしながら父親の前では盛大に噛み付く事も できないという理不尽さを抱えて、智耶は新井をにらみつけた。背の高い新井を睨みつけるには首におおいなる負担がかかるが、そんな事は知ったことではない。
敵愾心あらわに睨みつけるのと、新井がため息をついたのは同時だった。智耶がいぶかしげに相手を見るよりも先に、叱責に近い声がかかる。新井からではない、その隣からだ。
「智耶!いい加減にしないかっ」
めったに怒りを表にださない智耶の父親は、だからこそ少しでも語調が乱れるだけで周りに恐怖を与える。
怯えで肩を揺らした智耶を呆れ顔で見やってから、彼は新井をも視界にいれた。
「いいかい智耶。パパはなにもお前の夢を妨害するつもりはないんだよ」
「で、でも、じゃあ!なんで新井がここにいるの?新井ってコンクールで賞とかもとっちゃうくらい すごいパティシエなんでしょうっ?そんな人をどうしてうちにつれてきたの?」
智耶の家は町のケーキ屋だ。御好評は頂いているが、それでも新井のような期待の新人とやらが納まるには 小さすぎる。新井本人が望まずとも、ホテルやブランドがすでについている店がこぞって勧誘したに違いないというのに。
よりにもよって智耶が一番あこがれたパティシエの登竜門ともいえる賞をかっさらった男を、智耶の父親は店に雇った。今までほとんど人を雇うという事をしなかった父が。その意味を智耶は、父が彼をこの店の跡取りにしたいのだと考えていた。
「違う、智耶」
すっと割ってはいった低い声にはまだ慣れない。一ヶ月前には無かった声。新井だ。
「俺が無理いって雇ってもらったの。ね、そうですよね店長」
新井の言葉に父親が頷くのを見て、智耶は尚更疑問をあらわにした。 ただしその疑問を口にだすまえに、父親と新井の二枚ブロックに遮られてしまった。
「一将君はうちの店にとっても、それから智耶にとってもいい影響を与えてくれると 思ったからね。最終的に了解したんだよ」
「そういうことだから。変な見方するな、わかったな?」
全然わからない。そう言えたらよかったが、こちらにそういわせない迫力が大人二人にはあった。
悔しげに黙りこんだ智耶の頭に、大きな手が載った。顔を上げれば少し困り顔の新井が 智耶を覗き込んでいた。
「まあ、とりあえず言わせてもらえば」
「―なによ」
ふてくされてしまった智耶の言葉も苦笑一つで聞き流し、新井は少しだけ声量を抑えた。
「怒りにまかせて菓子を作ってる時点でまだまだだな。技術以前の基本だ」
「うっ…」
当たり前すぎる正論にたじろいだ私を前に、天敵新井はニヤリと笑う。その笑みが 腹立つほどに挑戦的で、智耶は完全に隣にいる父親を忘れた。
「とりあえず挑戦はいつでも受けて立つから、それなりに対策たててこい」
「腹立つっ!見てなさいよ、あんたなんかこの店にいらないってくらいのパティシエになってやる んだから!」
智耶っ!とまたも嗜める父親を他所に新井は心底楽しそうに笑った。
やっぱり嫌いだ、大嫌いだ。そんな思い一色に埋め尽くされているから気付かなかった。
「せいぜいがんばれ」
そういった新井の声が、存外に優しかった事に。


優しさとともに与えられた挑戦権に気付くのは、あとしばらく先のこと。





 (2006年8月17日)

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