Tiny Sweeter ー未来のパティシエ奮闘記― 2


「あ〜〜っ、もうっっ!」
自分が出した声に驚いて、智耶は慌てて口を閉ざした。
思わず叫び出したいと思っていたら、本当に声に出して叫んでしまっていた。いまどき漫画にも出て来なさそうなあまりに古典的な行動に、痛いくらい頬が赤くなった。ここに誰もいない事が幸いだ。
「うぅ、ごめんね。君に言ったわけじゃないから」
そういってボウルの中を覗き込む。光沢を放つシルバーのボウルの中で上質なダークブラウンの液体が静かに揺れていた。
食べ物相手に君は無いだろうという突っ込みもこの際一切無しにしてもらおう。お菓子作りが生きがいと思っている智耶だって、よもや溶かしたチョコレート相手に語り出すだなど自分でも露とも思っていなかったのに。
今はどういうことか、零れ出る愚痴の聞き相手はボウルの中のチョコレートだ。決して人には見せれら無い姿だと思う。特にあいつには。
自分が敬愛する父が、信頼を置いている男を思い浮かべる。飄々として何を考えているかわからなくて、普通なら智耶の家のようないち町のケーキ屋に収まっているような器の人ではなくて。智耶が描くパティシエへの道をこれ以上なく順調に突き進んでいる御仁。
新井一将は、智耶に無いものを当然の如く持っている。しかもそれを後生大事というよりは、引っさげてといったほうがしっくりくるくらいの自然体で今なお新井は智耶の父の店にい続けている。数ヶ月がたった。このままだと半年は堅いかもしれない。
なにより智耶の父が新井を大層気に入っていて、名実共に新井は父の片腕だ。それ以上かもしれないと思い出したのは、ここ最近父が新井考案のレシピを吟味しているのを知っているからだ。
父と対等に新作について語り合う新井。自分がまだスタート地点にもたっていないことが悔しくて仕方ない。高校生の智耶は、大学へは進路をとらず製菓系の専門学校へ行く事をもう決めている。それでも順調だと思わなければならないはずなのに、自分が思う通りに動けない今の状況が歯痒くてしかたなかった。
疲れからか、思考が嫌な方向にばかり飛び火する。智耶はため息をついて手元をうかがった。
ボウルの中たゆたうチョコレートの海。ダークブラウンの先に連想するお菓子は、幾つかある。とりあえずまずは定番から作ってみるか。そんな事をあれやこれやと考えているのはいつものことだが、題材のメインをチョコレートと据えているのはこの時期だけだ。
セント・バレンタインディ。お菓子一筋の智耶にはあまり関係の無い話だが、いかんせん智耶の周りが放っておかない。普段は菓子作りのかの字も厭う姉ですら、智耶に作り方を乞い、時にかわりにつくってくれとすら強請る。友人達にしたって同じ事で、面倒くさいと思いつつも彼女とて一応女性という奴で。友人や姉の考えもわかるから、この時期だけ定期的な日取りを決めて一緒にチョコレート菓子を作ることになっている。毎年その題材を考えるのは智耶の役目だった。
ので、こうもうんうんと連日考える羽目になっている。
(ガトウショコラは2年前にやったけど、焼き方失敗した子いたなぁ。去年はなんだっけか)
皆で並んで作れて、なおかつ初心者でも失敗の少ないもの。つらつらと考えていた智耶は真後ろに人の気配があることを、またも察知できなかった。
「手、止まってるぞ」
「―お、驚かさないでくれる?」
いつもより大人しい智耶の反撃に、新井は少し驚いた顔をした。が、目の前のボウルを見てしたり顔になる。
「バレンタインディか?」
「そう。何を作ろうかなぁと」
思っているのよといいかけて、はたと智耶は我に返った。なんでよりにもよって天敵に悩みを打ち明けなければならない。
慌てて口を噤んだ智耶は、次いで新井を睨みつけたがいつもの如くどこ吹く風といった態で受け流された。
「―クッキー」
「は?」
顎に手を当ててボソリと呟かれたその言葉に、智耶は睨むのも忘れて目を丸くした。
「だから。チョコレートクッキーとかどうだ?マーブルでも結構うまいし、あれならなんとかなるんじゃないか?」
クッキー。そういえば、バレンタインディに作った事は無かったが、なるほど確かに良い案だ。クッキーなら、家庭科の調理実習で作った事がある子はわりと多いし、なかなか手ごろな選択に思えた。
「いいかも」
ポツリとつぶやいてからはっとする。敵の考えに喜んでどうする、私!そう考えた智耶だが、いかんせん新井のその考えがもうすでにプランの中央で燦然と輝いている。どうもはまってしまったらしい。散々躊躇したが、渋々降参した。故にゆっくりと口を開く。
「ありがとう」
天敵と本人の目の前でさえ厭わず呼び続けてきた。新井は気にした様子は一切見せなかったが、こうして感謝の意を述べられるとは業腹にも想像だにしなかったらしい。明らかに驚いた表情をして固まっていた。
何故だかそれを見ているのが恥ずかしくなって、智耶はボウルを抱え込む形で厨房からの逃亡を図った。
「智耶ぁ」
後ろからかけられた自分の名は間延びしていた。早くも復活を果たしたらしい。智耶は恐る恐る振り返った。
視線の先で、若きパティシエがにやりと笑って、手をひらひらとふっていた。
「お返しは気にしなくて良いからなー」
「………っ」
(何よ、腹立つ!私のが食べられないっていうの!?)
感謝も忘れて一気に憎らしさが勝った智耶は闘志もあらわにびしりと新井を指差し宣戦布告した。
「首洗って待ってなさいよ!おいしっていわせてみせるんだからね!!」
言い捨てて駆け出して言った智耶はしらない。

「智耶は元気だな」
「…一将君、あまり娘をからかわないでおくれ」
「いやいやからかうだなんてとんでもないです、店長」
「一将君」

大人二人が、そんな会話を大層真面目な表情で交わしていた。

 (2008年1月23日)

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