ある社員B(30歳・妻子あり)の考察
「あー、疲れた」
終了のベルが鳴ってから、三十分弱。
ずっしりと重くなった肩を労わるようにまわしてみれば、なんとも鈍い音が鳴る。
学生の頃が懐かしい、昔は肩など凝っても体を動かせばいつの間にか開放されていたのに。
寄る年波には叶わないなとため息をつきながら、俺は久々に空いた時間をどうしようかと考えていた。
暇そうな奴ら集めて、居酒屋でもいこうか。たまには俺らも生き抜きが必要だ。
などと、ほぼ毎日のみに行ってる自分に都合のいいことばかり考えていた時だった。
「私は家に帰るんだって、何度言えばわかるのかなぁ?茅ヶ崎君」
「俺も同じ回数、それは不可能だって言ってると思うんですけどね、羽丘さん」
にじみ出る怒気を無理やり押さえ込んだような声音と、楽しそうな空気をわざと隠した冷静な声の掛け合い。
ああ、あいつらか。
数ヶ月前からの日常茶飯事。もはや誰もものめずらしげに見ない。
それでも二人の掛け合いが面白いという理由で、皆こっそりと耳を傾けている。もっとも、苛立っている女性社員、羽丘さんのほうは全く気がついていないみたいだが。茅ヶ崎は違う。むしろその状況すら味方につけて、立ち回る。
まったく羽丘さんも、とんでもない奴に好かれたものだな。
女子社員の一部は、社員の中でも人気のある茅ヶ崎にかまってもらっているという理由でか、羽丘さんをやたらネガティブなイメージでみているらしい。
外回りでいない俺らでさえわかるほどに、それは顕著であった。もっとも女子はこっそりやってるつもりみたいだったが、そこまで俺らだって鈍くない。
ただでさえ高い女の話し声なのだ、いやでも耳につく。
『なんで、あんな女が茅ヶ崎君に声かけられるわけぇ?』
『ほんとよね、あの体型どうにかしてから出直して来いっつーの!』
あの体型。そう、確かに彼女は世に言う痩せ型でも普通の体型でもない。太っている、それも日本女性にしては結構。
だからなのか、余計に彼女達の目線はいつも彼女を見下した上の発言だった。
(本当、大変そうだなぁ)
そんなことを思いながらも、俺はそこまで彼女を心配する気はなかった。
多分、他の多くの社員もそうじゃないかと思う。
薄情ってわけじゃない。俺らだって初めはそれなりに心配してた。
心配しなくなった理由が、きちんとあるのだ。
何を隠そう、原因は茅ヶ崎。
奴が引き出す羽丘さんの素が、皆数ヶ月の会話の中で薄々わかってきたからだ。
俺も課が同じではないからあまりよくは知らないが、彼女はあまり社員と打ち解けていないようだった。
打ち解けていない、はちょっと違う。ビジネスライク以外の会話はあまりしないという事だ。
茅ヶ崎がああしてアプローチする前から、体型についてはからかいの噂がたまにあったらしい。
それに気付いているのかいないのか、言わせたままにしているというから、俺としては
結構内気な子なのかなと踏んでいたわけだ。
確かにそういう部分もあるのかもしれない。それでも彼女は、ただそれだけではなかった。
それがわかりだしたのは、茅ヶ崎のやりとりから。
これはある日の朝方の会話。
「茅ヶ崎君。席に戻ったらどうかな」
「いやです」
「嫌も何も仕事中だから、戻りなさい」
きちんと言い返せるんだと、密かに驚いたのは俺だけではないはずだ。
大概は茅ヶ崎が勝ってしまう会話だが、そのやり取りが面白い。
会話の端々で、思慮深さがにじみ出ているような。茅ヶ崎も頭の回転が早い性質だから、二人の会話はいつもどこか言葉遊びのようだ。
そんな会話が普通に口から飛び出してくるのだからもちろんのように知識も豊富のようで、時折思わず「へー」と口に出してしまいそうになるくらい、雑学に長けている。そういう時にチラリとあたりを見渡してると、大概他の奴もへーといいそうになって、慌てて目を逸らしたり口元を押さえ込んだりしているから、皆それなりに聞き入ってしまえるくらい結構話のが上手だと思う。
そんな会話から彼女を分析するに、きっと陰口の存在も知っている(そりゃあそうだろうな、あんだけこれみよがしにいってんだから)が、取り扱うのも面倒くさいとばかりに放置しているだけであろうということ。
そこまで弱くないだろう。
それが、俺や他の社員の考え。
だけれども、俺には絶対的な考えがある。
きっと厄介な事になっても、茅ヶ崎が絶対にあの子を守るだろうということ。
茅ヶ崎と俺は、仕事の関係上結構話す。
階級的に言えば俺が上だが、そこまでご大層な地位はもっていないから、わりと砕けた会話もする。
だからこそ、わかる。
茅ヶ崎は本当に、楽しそうに嬉しそうに羽丘さんと会話をしている。
時に真剣な声音で、時に相手に逃げ道を与えるがごとく優しく冗談の会話に載せて。
好きだと伝え続ける、茅ヶ崎のあの表情ときたら。
賭けでもしてるんじゃないのかって噂も結構初めのうちは流れたんだが、数ヶ月たってもめげずに続けられる会話と、何よりも心底楽しそうな茅ヶ崎の表情を見て、そんなことをいう奴はいまや一部の女子社員を残してほとんどいやしない。
これで本当に騙しだったら。あの表情が演技だったら、あいつはきっとハリウッドにいけるに違いない。
それに絶対にそんなわけないだろうと思いつつ、俺は立ち上がりながらチラリと茅ヶ崎に視線を流した。
「じゃあ今日は、そこにしましょう」
「だ、だから私は行くだなんて一言も」
「そんな言葉はききません」
普段の優秀な会話をしている奴とは思えないくらい、強引に押し切る茅ヶ崎。
あぁーあ、男前が台無しだ。ものすっごい嬉しそうな顔しちゃってまあ。
皆の予測どおり勝ち越して、上機嫌で歩き出す茅ヶ崎とそんな奴に引きずられるようにかえっていく羽丘さんを視界に納めて、俺はため息をついた。
ったく、幸せそうだな…。そういや俺も、あいつと付き合いだす前は色々と苦労したなぁ。
付き合いだしてからも、喧嘩とかしたけど、やっぱり会話するのは楽しかった。
「―…」
とたんに思い出す、であった頃の妻の姿。
笑顔が酷使した頭脳の中を、やんわりと確実に浸透していく。
「お疲れ様です主任。今日どこ飲みに行きます?」
いつもつるんでいる飲み仲間の部下が嬉々として聞いてくる。
「や、俺今日はパス」
「え?」
一通り点検をし終えてから、部下にニッと笑ってやった。
「家に帰る。妻も子供も待ってるんでな」
あっけにとられた部下の横を通り過ぎながら、現在の妻の顔を思い出していた。
(2006年10月〜11月,Web拍手にて掲載)
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