「そういえばもうすぐヴァレンタインですね」
「…………それがどうかしたのかな、茅ヶ崎君」
思い切りの沈黙を前においてから、私は書類から顔を上げた。
同じ島に茅ヶ崎のデスクはない。いくら同じ階で仕事をしているといっても、同じ課ではないのだから当然なのだが、この男は関係ないとばかりに暇を見つけては私のデスクに来てこうして邪魔をする。
奴のあの胡散臭い似非爽やかな笑みの裏にひそむサタンが怖くて、私は彼をうまく追い払えないでいるのだ。情けない事に。
今回もまさにそれで、一瞬深まったように見えた彼の笑みに恐れをなして、私は渋々とペンを置いた。
5分だ、それ以上は絶対に話さない。そう心に決めて。
「で、バレンタインがなんだって?」
チョコレートなら、私があげなくても奴はたくさんもらうだろう。
ただでさえ他社員に送る義理チョコのことで同じ課の女性社員と共にため息をついているというのに。
何故に私が茅ヶ崎のためにこさえなければならないのだと、平然と考えた。
つかの間、そんなことをいってはいけないと良心が叫んだが、いかんせん相手はあの茅ヶ崎だ。一瞬の気の緩みがこちらの命取りになる。
今回ばかりは私も鬼になろうと心を決めた。
が、茅ヶ崎のほうが一枚上手だという事を、私はすっかり忘れいたのだ。
「俺、今年は誰のチョコレートも受け取らない事にしたんです」
「―は?」
私は驚いて息をのんだ。茅ヶ崎はというと、私の隣のデスクの奴が他の課に応援に借り出され留守なのをいいことに、ちゃっかりとその椅子を拝借してニコニコと笑っていた。
「そんなことできないでしょうに」
「なんでです?」
正気かと思うほどに相手はただ首を傾げるのみで、私は頭痛がするとばかりに頭に手をやった。
勿論茅ヶ崎に思いを寄せて、個人でそれはもう張り切ってチョコレートを調達、もしくは調理する人間は必ずいる。それも決して少なくは無いはずだ。
だけれども私のいる会社はどこにでもある普通の日本の会社であり、所謂儀礼的なチョコの贈呈というものが最早義務付けられているといっていい。
馬鹿らしいとは思うが、我が社はいまだその風習はきえていない。
二月特有の名刺よろしく、上に下にとチョコレート配りの行脚をするのが2月14日の定番だ。
社内での一種のコミュニケーション確認のようなものに等しい。
そんな皮肉的ながらも立派な『行事』の一貫なのだ。いくら人気者の茅ヶ崎といえども、受け取らないというのは無謀すぎるように思えた。
上からの顰蹙めいた嫌味だってあるだろう。
それはそれで、とても理不尽でおかしなことなのだが。
「馬鹿なこといってないで。準備する女の子達だって決して楽じゃないんだ。受け取る時くらいスムースに受け取ってあげないと」
そうだ、少しは考えてみろ。この忙しい時期にあれやこれやとどこの会社のチョコレートにするのかとリサーチを繰り返し、もしくは自分のレパートリーを省みて。わざわざデパートへ赴いたり、はたまた材料片手にキッチンに篭らなければならないのだ。本命ならまだしも、義理チョコにそこまで情熱は注げない。
それなのに受け取ってもらえなかったら、腹正しい事この上ない。
そこまで考えると、懸念も手伝って忠告が無意識に口を着いて出ていた。
「じゃあ、羽丘さんも俺にくれますか?」
「く…、君ね。子供じゃないんだから」
「―子供じゃないのは、羽丘さんが一番わかっていると思いますけど?」
ねぇ、羽丘さん?
少しだけトーンを抑えたその声よりも内容に、私は心臓を危うく手放しそうになった。
意味ありげにニコリと微笑んだままの表情、繰り出される眼差しはそこはかとなく艶かしいのは私の気のせいではないはずだ。
茅ヶ崎が、何を言いたいのかわかってしまった自分がにくい。赤くなりそうな、否、なってしまったであろう頬を隠すように少し俯いて、私は思い切り茅ヶ崎をにらみつけた。
いくら小声で話したといっても、ここは職場だ。
好奇心に占拠された視線が、私の大きな背ばかりか頭や顔に一気に増えた。
(こ、こいつ…っ)
顔をかすかに近づけた茅ヶ崎を見て、私は絶句する。
ニヤリと笑った彼の顔は、明らかに腹黒かった。
このまま続きをこの場で話してもいいのならチョコはいらないと、ばかげた恐喝しているといってもいいほどに。
馬鹿げている。だけれども私にとってはそれは死活問題だ。
「か、考えておいてあげるから!」
搾り出すようにそういった私に、茅ヶ崎は勝利の笑みを浮かべていた。
(2007年2月11日〜18日,Web拍手にて掲載)
戻る /
目次へ /
書庫へ