Tiny Sweeter ー未来のパティシエ奮闘記― 3
「智耶、ちょっと待て」
厨房からかかった声に、智耶は眉根を寄せる事で答えて見せた。本来は無視してやってもいいくらいだが、いかんせん奴には借りがある。借りというものは返さなければいけないのだ。せめてその時がくるまでは露骨な対応をしないでおこうと、"大人の"対応を覚えたばかりだ。尤も、それがいつまで持続できるのかなど、智耶自身もわからなかったが。
苦々しい智耶の目の前で、大柄の男が音も立てずに近づいてくる。真っ白なパティシエの作業着は智耶の尊敬する父親と同種のもので、今日の作業のどこかでついてしまったのだろう、染み付いた甘い匂いが智耶の鼻腔をくすぐった。
「―何」
可愛くない声がでた自覚は、残念な事に多分にあった。それでも相手―新井一将は年上の余裕とばかりに気にしたそぶりも見せない。代わりに小さな笑みすら浮かべて、新井はやおらその大きな掌で智耶の手を取った。
予想していなかった行動に驚いて固まれば、新井はそこで始めてニヤリと笑う。
(あー!あー!!!!)
絶対に仕返しだ!間違いないとその表情を見て、智耶はますます怒りをあらわにしてみせた。例に掴まれた手を大げさにぞんざいに振ってみる。それでも憎らしい事に新井の指がそこからはすれることは無かった。
「なんなの!いい加減にしないと怒るわよ!」
「―や、おまえもう怒ってるし」
「うるさい!」
やっぱり新井はくつくつと笑ってばかりだ。これでは一方的に怒鳴っている智耶が一人馬鹿みたいではないか。ますます膨れた智耶の頬をからかうように、新井はそっと智耶の掌に何かを載せた。小さな、でも確かに重みのある感触に釣られるように視線を落とす。握られていた手は、今度はあっさりと離れていった。
「え、クッキー?」
それだけじゃない、薄くカットされているが、ロールケーキも入っている。透明なセロハンの袋の中に可愛らしく納まったお菓子は、ロールケーキの生クリームの白さといい、クッキーの程よく焼かれた色合いといい、格別に美味しそうに見えた。思わず喉がなった。
「あぁ。それひな祭りのお祝いとホワイトディのお返し」
ひな祭りはおいておいて、ホワイトディという言葉には覚えがあった。なにせあのバレンタインディのあと、新井の言い様が悔しくて一番上手くできたチョコレートクッキーを数枚どうだとばかりに渡したのだが。
(別に本当のバレンタインの意味で渡したんじゃないんだけどな)
少なくとも困ってしまった智耶の心情を読み取ったかのように、新井が笑った。あまりよくない種類のそれだ。釣られるように、智耶の柳眉も釣りあがっていった。
「まぁ、それ食べて存分に研究に役立てていただけたらと思って?」
「―っはぁ!?なにそれ!なんで私があんたのお菓子を参考にしないといけないのよ」
あいた口がふさがらないとはことのことか。あまりの傲慢っぷりに智耶は迷うことなく咆哮した。それでも新井は、一貫として態度を崩しやしなかった。逆に悠然と笑っている。あざけりよりもこうした苦笑のほうが尚のこと腹が立つと知ったのは、奇しくも新井の出現による。再び眉根を寄せた智耶に、あろうこと手を伸ばしてぽんと小さく頭をなで、それから肩のあたりをたたいて見せた。
「店長以外のパティシエの菓子も食べてないと味の研究とはいえないぞ。―まぁ尤も、お前が将来その道にす進まないなら話は」
「進む!進むに決まってるでしょう!?」
全く持って腹が立つ、それから何気なく正論かもしれないから尚更に業腹だ。怒りをあらわに智耶は荒々しい足取りできびすを返した。
「とにかくっ!貰っておくわ、ありがとう!」
怒り覚めやらぬ声でのお礼は、新井にどう受け止められたのかわからない。
「おぉ、味わってしっかり食べろよー」
それでも、絶対に笑っているということは確かだったけれど。
尤も。
「一将君…」
「店長、みてらしたんですか。いやぁ、あんなに怒ってるのにきちんと礼はいうところは、素直ですよね」
「―― 一将君」
こんな父とのやり取りまでは、智耶の感知するところではなかったけれど。
(2008年3月2日)
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