「こんな出会いもいいではないか」 プチ続編
8.大寒




「―寒っ!」
思わず声を出して身震いする。年が明けてからのほうが、確実に寒いのはきのせいか。いいや、絶対に気のせいじゃない。横峰果恵はあまりの寒さに首をすくめた。
コートの下にはセーター、その下には幾重にも着た厚木の下着。貼れるホッカイロにだって抜かりはない。もちろん、コートの上にはマフラーに、かじかむ指先防止には手袋は必須だ。これだけしているのに、どうしてこんなに寒いのか。
大学のキャンパス内を足早に歩きながら、果恵は恨みがましく空を見上げた。たっぷりとした重量感のありそうな雲のその濃い灰色にめまいがする。都会育ちの果恵でもそれとわかるほどに、その雲は誰がどうみても雪雲だ。じきに降ってくるに違いない。
いよいよ競歩のようなていになった果恵を責めるものなど、誰もいない。なにせ周りが皆そうである。こんな寒さの中、いくら大学の敷地内といえど立ち止まって話し込む人影は今日に限りいないように思えた。この寒さだ、無理もない。加えて今この時期はテスト期間だ。それさえ終わればあと数週間もしないうちに長い春休みが始まるが、それでも今は目の前の試験に意識がいくの当然だ。そんなわけで、果恵もここ数日の間仲間とおしゃべりに興じていない。少なくとも果恵の学科は、他の学部の生徒が気の毒そうな表情を一様にして見せるほどに、地獄のテスト範囲だ。普通に分厚い本数冊投げ出され、これねといわれた時は失神を通り越して教授の存在を隠滅しようかともくろんだ。あれは半年前、初めて大学で受けた試験の頃である。
(今はそんなことおいといて)
果恵は今、この寒さの中こんなにも急いでいるのは早く家路に着きたいからでも、勉強をするためでもない。なにせ果恵はたった今、一足早くテストが終わったのだから。あとは大きなレポート提出のみであったが、それももう下書きは終わっていて、清書するだけだ。ちなみにいまだにタイピングではなく手書きに拘る教授陣は、どこかへ飛んで消えてしまえばいい。
要するにほとんどは自由のみの果恵が何をこんなにも急いでいるかといえば答えはたった一つだ、決まっている。
目前にメインゲートをひかえて、果恵はすでに走り出していた。
「よぉ、遅かったな!」
校門をでて直ぐ、左横で響いたその声は聞き覚えがありすぎる。なにせつい数週間前にも少し遅れた初詣にいったばかりだ。そんな存在の声を間違おうはずがないのだ。果恵は息を整えるのも忘れて相手の傍へと走りよった。家持章仁社会化教諭は、普段と変わらぬ表情で校門傍の壁に寄りかかっていた。そうしていれば大学関係者に見えなくも無い。年齢的にも院生だといえば普通に大学内を闊歩できる気がするから不思議だ。
しかし果恵はそれどころではない。どうしてここにいるのだと、連絡を受けたままもうずっと握り締めていた携帯電話をまたも強く握り締めながら叫ぼうとしていたのに。準備していた言葉とは違う言葉が飛び出した。
「なんでそんな寒そうな格好してるんですか!」
ありえない!そう叫ぶ果恵の横では、防寒具としてただ一つ厚めのブルゾンを羽織っただけ。完全装備の果恵と比べればえらい違いだ。果恵の心からの悲鳴にしても、家持はただ小首を傾げただけだった。
「充分だろう」
「どこが!?あぁ、もう!風邪引いちゃいますよ、何してるんですか」
いまだ立ち尽くしたままの家持の手首を握り締めると、果恵は勢い勇んで最寄の駅までの進路を取る。行き先はは駅前の喫茶点。目的は勿論暖を取るためだ。
(あぁ、私もいったいなにしてるんだ)
勢いで自分から手首を握ってしまった。今更そんな事に気づいた果恵は、少し動揺する。僅かに赤くなった果恵の耳朶をからかうかのように、家持が存外に近い距離でぼそりと呟いた。
「どうせなら手繋ごうぜ、果恵」
そんな事知るか!そう叫びたいのを堪えて、果恵はとにかく歩を早めた。
自分の行動が普段と違うのはきっと、この寒さのせいに違いないと決め付けながら。冬の大学を後にした。

 (2008年1月22日〜2月20日)
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