トリッキーな君達へ 第六話


最近どうにも落ち着いて考えることができない。
例えば休日の昼下がり、部屋のソファで行儀悪く寝そべりながら本を読むとか、はたまた仕事に必要な資料の整理をしているつかの間の空白とか。とめどない日常にサブリミナルフィルムのごとく、浮かび上がる画像はまちまちだとしても、関連している“対象物“はことごとく統一されている。
今だってそうで、まるで私の残業の終了を待っていたかのようにデスクに鍵をかけ終え立ち上がったとたんに私の脳裏によぎった。
思わず脱力して床にへたり込みそうになった。遅めの残業でよかった。あまり人がいないし、特に総務課の女子社員は一人もいないというところがいい。ここ最近富に反応が鋭いのだ、それも何の因果かたった今私の頭に浮かび上がった奴の行いがために。
(ああ、もうなんで)
なんで、茅ヶ崎のことなんてこうも考えにゃならんのだ!
腹立ちまぎれに心内で絶叫しつつも、ため息を漏らす。最近いつも気がつけば、茅ヶ崎のことばかり考えている。本当に考えていることもあれば、ふとした事象に関連付けて奴の名があがったりだとか。これはいけないと、頭の中ではわかっているはずなのに、同じ頭が念入りに茅ヶ崎を思考の中央へともっていきたがる。自分では制御できないって、なんだそれ。そう突っ込みたいが、それ自信がもうすでに地雷に足を突っ込んでいるように思えて、私はいつもそこでストップをかける。最近はそれすら聞かなくなっていて、困るのだけれども。
どうにも最近は調子が悪いと感じながらも息を整え机のそばにしゃんと立つと、近くのデスクから視線を感じた。視線をさまよわすと、自分と同じ課で私と同様に残業をしていた課長だった。またえらいところをみられてしまったと苦笑いすれば、いささか疲れた顔の課長のほうから声をかけてきた。
「羽丘、大丈夫かぁ」
「あ、はい。大丈夫です」
すいません、お騒がせして。よれよれのていで頭を下げ、私は急いで職場を後にした。おかげでエントランスにたどり着いたときには見るも無残なほど疲れ果てまともに息すらすえない状態であった。別に普段はなんとも思わないが、こういうときだけ自分の大きな体とそれを作る要因にもなった運動大嫌いのインドア思考が恨めしい。
「ああ、もう」
本当にどうしてくれようか。ただでさえ仕事であれば一日最低一回は顔をあわせる。つまりは逃げることが不可能ということだ。そうして開放されたプライベートの時間ですら、今はもう油断できない。朝方から夕方まで一緒に過ごしたことはたった一度なれども確実にあったわけだし、しかも記憶に新しい。その上今回は思考という自分でも制御がそうそうできそうにないつれづれなる思いの合間にまで進入してくるようになった相手のことを思い、私はため息をついた。
どうしろっていうんだ。もうひとつだけ、大きなため息を残して私は帰路へ急ぐ。とりあえずいますぐに家に帰らなければ。明日も仕事があるし、なにより家に帰れば”彼女”に連絡がとれる。精一杯のはや歩きで、私は会社をあとにした。


『――で。なんなの。早く寝たら?』
「そんな冷たいこといわないでくれ、頼むから!お願いだから話聞いて」
情けないなんてもんじゃないくらいの声を上げて、私は受話器にかじりついていた。正確に言えば遠い遠い場所にいる、私の友人にだ。ベッドに半分寝転がりながらの会話はいつものことだが、私がこうにも話しを聞いてとすがるのは珍しい。私達二人の会話は、どちらかといえば彼女のほうがよくしゃべる。楽しく上手に纏め上げられたその話や、力いっぱい叫ぶ彼女の愚痴を苦笑して聞くのは私である。だけども最近、どうにも立場が逆転している。彼女と私の間の会話の大半もまた、認めたくはないが茅ヶ崎のことばかりである。あぁ、もういったいどうしろというのだ。今宵もまた神頼みならぬ友頼みで、彼女に電話をかけた。他力本願上等だ。
『ミチル。きこうという気持ちはあるけど、時間が時間なのよ』
家にかえるやいなや、私は手早く夜食を食べ終えシャワーを浴びるや早々にパジャマに着替えた。準備万端の状態でベッドの中にもぐりこみ、私がしたことといえば前述のとおりだ。神にもすがる勢いで、古くからの友人に電話をかけた。時間的にあちらはやや早めの朝といったところで、出勤数時間前の彼女は、まだ寝ていたらしくいつもより数割愛想がない。それでも私にとっては唯一の信頼できる相談相手だ。
「どうしよう、というか私はどうしたらいいの!?」
勢い込んだ私の言葉に対し、ああ、なんたるかな。友の声はどこまでも冷静さを欠かなかった。
『どうしようも何も。今すぐモールにいってデート用の服買って、それ着て彼んとこおしかけなさいね。デートのひとつやふたつすればいいじゃないの』
なにを当たり前なことをとばかりのその調子に、私は固まる。彼女の声は揶揄する調子など一片もなく、本気で真面目な発言とばかりのその意見に、私は思い切り狼狽した。
「な、なんで私がっ」
この時間帯に店はやってないというくだらない逃げ口上さえ浮かばずに、ただひたすらに動揺した私は、上ずった声をあげた。受話器を握る手がじっとりとしている。尋常じゃない汗だった。
脳裏に颯爽と参上した穏やかスマイルの茅ヶ崎がよぎり、そのままこびりついてはなれない。
頬が赤く熟れた状態を、受話器向かいのやたら勘のいい友人に悟られまいと、誰もみていやいしないのにベッドの上掛けを頭までひきあげる。何でかしら内が、どうしようもなく恥ずかしかった。
それでもそのまま何も言わないのは、彼女の台詞に同意しているように思えて。何が何でも反論しなければと、冷静なれない心で躍起になった。
「私がどうして、茅ヶ崎とデートなんてしないといけない!?」
『―ミチル。あなたそれ、本気で言ってるの』
私の狼狽した疑問にたいし、どこまでも我が友は追及する。いつもなら優しくいなしてくれるのだが、今日はもともと虫の居所が悪い彼女だ。はっきりいって言い方も容赦なかった。
『いいミチル?あなたが普段恋愛のれの字も興味ない、私とは関係ないで過ごしてきた恋愛初心者なんてこと、とうの昔に知ってますけどね。それはないんじゃないの?あなたは確かに恋する何とやらだろうけど、その前に理性と知恵ある大人でしょ。恋愛小説読んだことある?恋愛映画みたことある?』
矢継ぎ早のその言葉には、苛立ちという色がほとんど見えない。ということは本気で言っているのだ。歯に衣着せぬ彼女の言い分は、二十歳をとうに超えて本気で叱ってくれる相手がもうほとんどいないという状況において非常に助かる。いつも導かれている。私だって、彼女に思ったことをずばずばとそれはもう遠慮なく言い合うが、だからこそ彼女の言葉というのは一つ一つ私を揺さぶり、時に傷つけ、…目を覚まさせる。
『あるわよね。そしてほっとんど無いに等しい恋愛経験と照らし合わせて、あなたはなんでかものすごくあせってるのよ。このままじゃあいけないって。そうでしょう』
その聞き方は我が友ながらずるいと思う。私の性格を確実に、そう、茅ヶ崎なんかよりも知り尽くした彼女は、私から着実に建前やらいいわけを取り除かせ、有無を言わせない術というものを十分に知っているのだから。加えて、ここまで言われて違うといえるほど、私は無知のふりをできるわけがなかった。
自分のことだ。気づきたくないものだって、一番最初に目に付いたのは誰でもない私自身なのだから。
微かに黙った私の気配だけで、彼女は私が静かに負けを認めたことを見抜き、盛大なため息をついた。電話越しに聞こえるそれは、学生時代の喧嘩のあとに多分に聞いてそれは、いつだってアクションの嫌味さなど感じさせぬほどに優しいのだ。不安定な調子だった相手の声が、通話開始頃に比べて確実に落ち着きなだらかなものへと変わっていた。
『ねぇ、ミチル。あなたもうわかっているんでしょう?恋愛なんてほとんどしないあなただからって、気づかないとは思わないわ。恋愛云々以上に、ミチルは自分のそういった感情の推移には、そこまで鈍くないんだから』
「―別に、そんなことない」
多分にぶっきらぼうになった私の返しに、友人は余裕綽々のていで笑っている。さっきの不機嫌さはいずこへ!?とばかりのそのゆったりとした泰然さに、私の口調は比例するようにふてくされたものへなってしまった。そんなことすらわかっていますとばかりの彼女は、もうそろそろいかなくちゃと会話の出口をちらつかせた。
「今日も朝から仕事?」
『そうよー。金曜日が遠いわ』
「大学でもいってなかった?その台詞」
思わず噴出してそう指摘すれば、私の言葉に彼女もたいへん楽しそうに笑う声が聞こえた。
『懐かしいわね。あの時もこんな話よくしたっけ?まぁ、もっぱら恋愛相談は私があなたにしてたんだけど』
その言葉を、曖昧に笑ってごまかそうとしたところをピシャリとさえぎられた。
『切る前にもう一度いっておくわね、ミチル。ネガティブな先走りもやっかりだけど、そこにあるものをはなから歯牙にもかけないふりをするのは、すごくすごくダメなことなんじゃないかしら?』
もはやぐうの音もでない。そんな状態の私をわかった上で、友は穏やかに言葉を付け足す。いつでも私を励ましなだめ、叱咤する彼女の声は心強いものだから、私はしばし何も言えずにただただ彼女の言葉に聞き入った。
『それにね、相談する相手も間違ってると思う。それはもう、私じゃなくてあなた自身の問題じゃない』
あぁ、あとは当事者の彼ね。さらりとそう付け足して、彼女は今度こそさよならの挨拶をして電話を切ってしまった。
通話終了音がむなしく耳にこだまする。のろのろと子機をサイドテーブルに放り出して、私は力なくベッドの中で丸まった。
正直にいえば、勘弁してほしかった。彼女の言うとおり、恋愛というものに興味なんてまるで無かった。加えて、相手から言い寄ってくるなどということは本来起こりえないはずだった。全ての人とは言わないし、自分も納得済みのことだが、どうにも世間でおいて太っているということは、それだけで劣性にわけられやすいようだったから。無関心でいようと思っていたところも、正直のところあったのだろう。自分の精神的な醜さがたちどころによみがえり、私は眉を寄せてきつく目を閉じた。どうして太っていたら、その人に思われている人がカワイソウなのか。純粋な直結ゆえに、彼らの根底にあるその思いに幼い私は傷ついた。勿論今では、そればかりでないことはわかっている。
事実私を外見ではなから遠ざける人もいたが、そんな事は気にせず受け入れてくれる人だっているわけで、私の周りでは幸いなことに後者のほうが確実に多かった。あまつさえ、自分が太っているのは事実だし、痩せたいとも別段思っていない私だったから、傍からいわれの無いことを言われても、幼い頃ならいざ知らず現在の私は大して何も思わない。十人十色だから、他の人が太った理由などわからない。判を押したように同じ理由だと思っている輩も多いみたいだが、それは絶対に違うのに。ストレスや病気で止むをえない人だっている。ただ、私に関してのみ言わせてもらえば、ただたんに自業自得としか言いようが無い。
(だって、運動嫌いだし。それでもって食べるの生きがいだったし)
自他共に認めるインドア派は、筋金入りだ。幼い頃から外で遊ぶなどおよそ考えたことは無く、私はいつも家の中でごろごろして過ごした。それに加えて、食べることにだけは異常なほどに執着を示したのだから、仕様が無い。なにせ食べ続けて太っているのと少しでも自制して痩せるのとどちらを選ぶといわれ即決で太ると言い切ったほど、その食欲は異様であった。
それでも私は自分で選び取った。否、それでは言い方がよすぎる。そんな格好いいものではなく、はっきりといえば健康よりも食欲をとり、怠けて体を動かすのを嫌がった。誰がどう見ても、自業自得、私の不善のなすことであるが、それでも食べることをとめられなかったのだ。そんなわけで、恋愛とはよそ様がすることで、私はそんなことより食べてたり友人らと語らったり、もっと自分ひとりの世界に言及するならばインドアをエンジョイしてるほうが断然に親密で、楽しかったのだ。
そんな世界に突如として降って沸いた、茅ヶ崎準という男。正直、なんて趣味の悪い冗談をしでかすのだと、呆れてものも言えなかった。それほどには、自分の外見や、中身、世間の常識とやらを知っているつもりだった。どこに好いてもらえる要素があったのか、滅多に話したことも無いその男は私に告白ばかりを繰り返す。相手にしなければいいと思った。どうせ同期の連中と賭けでもして負けたのだと、趣味の悪いことをとはっきり言って本気でそう思っていた。
だけども、茅ヶ崎の返答はといえばそれはもう今でも思い出しても怖いサタン降臨でもって強烈な怒りを伴いかえってきた。それ以来なお一層、より丁寧に相手は私に愛を囁く。混乱した。何せあの言動は、事実本当に怒り傷ついたそれで、私は何のためらいも無く彼を私の杓子定規で決め付けていたことを、一度は素直に認め、それに対しては謝った。
でもそのあたりから、私の調子が狂ってしまった。
大義名分のごとく振りかざしてきた言い訳を取り上げられたのだ。茅ヶ崎準という男自身をその壁を取ってみてみたら、意外と面白い人間だったのも今となっては幸か不幸か。
(違う、茅ヶ崎のせいにするのは間違ってる)
問題は、私だ。そんな言葉に結局は行き着いて、私はベッドの中で恐る恐る目を開けた。広がる暗闇が目になじむ前に、もう一度目を閉じる。明日だって仕事だ、そうそう夜更かしもしていられない。
無理やりに睡眠を呼び起こそうとせずとも、数日の茅ヶ崎ショックで理詰めのみで考えた頭は、普段使わない部署をフル稼働しているゆえか、すぐにでも寝られそうだった。
結局、今日も茅ヶ崎尽くめの脳内だった。ため息をつきつつも、そこまで胡乱に思っていない自分がいる。昨日との違いは、変わってしまった私の感情を今日は認めたからであろう。それは間違いなく友の電話効果に違いない。それがなければ、正直私はずっと茅ヶ崎から逃げたままだ。
もうすでに眠りの淵をさまよいつつある頭で、私は考える。
もう少し時間がほしい。整理が必要。だから、しばらく茅ヶ崎とは距離をおきたい。
そんな逃げ腰の情けない考えを引きずったまま、私はとうとう眠りに堕ちていった。



あぁ、神よ。
私が何をしましたか?それともあまりにも自分勝手な私の申し込みを、あなたは呆れておられるのか。どちらにせよ、私の言い分はどうやら天には届かなかった。そうとしかいいようがない。
「羽丘さん、お湯沸いたけど今日は何にします?」
ニッコリ通常装備の笑顔でお茶の種類を聞いてくるのは、この私専用の無人給湯室において一人しかいない。
茅ヶ崎の問いに、私は咄嗟に反応に詰まり、慌てて「アッサム」と答える。いつの間にか 給湯室に増えた種類別の紅茶のティーバックは、全て茅ヶ崎が持ってきたものだ。何気なくその全てが私の好きなメーカーさんに限られているというところは、さしもの私もすぐに気がついたが、「男の小さな意地ですから」とよくわかってあげられない理由でやんわりと遠ざけられた質問だった。これはどう取ればいいのだろうと思った私の表情は茅ヶ崎にとって考えが非常に読み取りやすかったのかもしれない。
「存分に自惚れてくださって結構ですからね?というか、俺はそれを望んでますんで」
耳元でつぶやかれたその言葉に、顔とは言わず体中が真っ赤になったのはつい最近だ。
―余計な事まで思い出した。視線を逸らして私は再度心内で嘆く。
向き合ってみようとは思った。決心するには、まだ自分の心はぐだぐだと不平をたれていて、自分と向き合うのに時間が必要だと結論付けて寝たのは昨日、彼女との電話を終えた直後だったのに。
その翌日、それも午前のうちから遭遇とは一体全体どういう采配なのだろうか。
(逃げるなっていうことだろうか)
そんな殺生なと思わず嘆かずにはいられない。私の生半可ではないその叫びを知らぬ茅ヶ崎は、いつもと同じ、少しだけ肩の力を抜いたような笑みをなんのてらいもなく私へと向けてきた。その手には私の専用のマグネットで、その上にクッキーの袋が危なげないバランスでかぶせられていた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
ぎこちない感情を、言葉で隠すことができただろうか。いつものように礼をいう。そう、いつの間にやらこの茶会、毎日の日課のごとくなっていて、そのたび毎度そんなことはしなくていいというのに、茅ヶ崎は私から鍋ややかんをとりあげて、コンロに火をかけるのだ。手持ち無沙汰の私は、今では普通に茅ヶ崎と他愛無い会話とやらを楽しんでしまっている。
(これはもう、客観的に見るまでも無くやばいだろう私)
茅ヶ崎大好きの総務課の女子社員連中には、絶対に見せられない光景だ。そんな事を考えながらも、なにが客観的に見て”やばい”のかを、私はもう隠せない。
いちばんの問題は、私と彼の境界線だ。明らかに、もう無視できないくらい私は彼に対する壁を取り払っていて、お互いの関係を示す距離というものは、一ヶ月前よりもダントツに今のほうが近い。私と友人達と同じくらいの心的距離だ。 ただし、友人と茅ヶ崎と何が違うかといえば、その距離の近づき方。友人としての近づき方では、ない。鈍い私も、それだけはわかった。だから今まで、必死に気がつかないふりをしていた。
「羽丘さん、飲まないんですか?」
「え、あ、ああ。ごめん。ちょっと考え事してて」
私は早口でそういって、慌ててクッキーを取り除きマグカップに口をつけた。考え事。嘘はついてない。その内容さえばれなければ、そんなことをいうのは大したことではないと思っていた。
ただし私は忘れていたのだ。相手は天下無敵な茅ヶ崎で、いつの間にやら我が友人に話のみで気に入られ、あまつさえ太鼓判まで勝手に押されたその男は、含みのあるふうんをつぶやいて私に倣って紅茶を口に含んでいた。私もちびちびと美味しい紅茶をゆっくりと飲む。ちょうど良い温度は、正直に言えばたいへん喉に心地よくて。紅茶の温かさにつられて、私の心まで少し温まったような気がした。ようするに気が緩んだのだ。完全に気を抜いてお茶を飲んでいた私は、唐突に近づいてきた気配に対して明らかに無防備だった。
「ねぇ、羽岡さん」
「っ、っわ!?」
思い切り挙動不審な動作で、私は文字通り飛び上がった。驚きとともに腰が抜けてへたりこみそうになった。いや、事実腰に力が入らない。だけどいつの間にか私の太い腰周りに回り込んだ腕が、私をしっかりと立たせていた。
「ち、茅ヶ崎君…っ!?」
「あ、久々に君付け。でも、いりませんから」
からかう様なその言葉なのに、どうしてだか響きはまったくもってまともであった。だけど私はそれどころじゃない。腰に回された腕は多少の身じろぎでも全く取れず、それどころかその外見からすれば意外なほどにしっかりしていた。相手の体半分にもたれかかるようなこの体制は、今の私にはとんだ刺激剤だ。顔中が赤くなるのを、どう足掻いても止める術など知らなかったから。思い切りうつむいて、ただただ相手に開放してくれるように祈った。あぁ、だけどやっぱり。神様というのは、悉く今日の私にはあえての試練を与えになるらしい。 思考回路そのものがカオスになりつつある。そんな私の耳元で、クツリと低い笑い声が響いた。それだけで緊張に肩が震える。これ以上ないというほどに赤くなっていたはずなのに、その限界地を軽々と越えて私の頬の紅潮は新記録を樹立した。
その一方で、心の奥底からおよそ他人事のようなで気持ちで思う。
あぁ、捕まってしまうと。
自分が今、誰をこうにも意識しているのか。まざまざと視覚と聴覚、その他の感覚全てにおいてわからせて。
目の前の男は、酷くかすれた声で囁いた。
「俺から逃げないでくださいね」
その言葉に、私の肩は面白いくらいに跳ね上がる。じゃれあいのように仕掛けられた言葉は、騙されてしまいそうになる優しげな声音と違って猛々しい。
なんちゃって、なんて軽い言葉などしらける前に焼き払われてしまうくらいの迫力と雰囲気が、確かにこの給湯室には満ち溢れていた。
赤くなった頬をごまかせない私は、思わず恨めしげに相手を睨み上げる。それなのに、目の前の茅ヶ崎ときたら、やけに飄々とした、否違う、ものすごく嬉しそうな顔をして私を見つめるのだからたまらない。それは何か、穏やかな君の笑顔が現在最大の弱点になりつつある私に対する牽制か!?
まともじゃない思考はそんな瑣末な言いがかりしか考え付かなくて。唇をわななかせた私を真正面から見据えて茅ヶ崎はきっぱりと言い放った。その腕を、私の腰に、密着した体制を崩させぬまま。揺ぎ無い声が、私の心をまっすぐに射った。
「意地が悪いといわれようが、殊あなたに関してはなりふりかまう余裕なんてありませんから、俺。―それに、こんな嬉しい反応すら返してくれるよになったんだから、尚更」
う、嬉しい反応!?そう動揺した私などまるでお見通しだとばかりの微笑みで、茅ヶ崎はあっけらかんといってのける。
「俺のこと、かなり意識してくれてますよね。最近。―特に今日」
そう、だよなぁ。そうだよね。君もやっぱりそう思うか!事が事ではなかったら、きっと肩でも揺さぶらんばかりにそう聞いたろうに。図星なんて言葉は可愛らしいとすら思えてしまうほどの直球で正体を暴かれて、私はもう逃げ場所がない。
だから勘弁してほしかったんだ。私は心の中でがっくりとうなだれた。普段から勘のいい茅ヶ崎だから、友人称すところの”恋愛初心者”の私の反応など、それこそ手に取るようにわかるのだろう。だから、距離をおきたかったのに。今日は特に、自分の気持ちを整理し立て直すための、時間がいると思ったのに。
思わず唇をかんだ私は、顎先に感じた気配に反射的に身を竦めた。憎らしいほどにほっそりとした形良い指が、思考が置き去りになったままの私の顎を持ち上げる。赤い顔のままで驚きに目を見開いた私を、凛とした眼差しで茅ヶ崎は悔しいくらいにあっさりと制してしまった。


「逃がすつもりなんて、さらさらありませんから。覚悟してくださいね」


眼差しが私の全てを絡めとる。
支配される。
頬の温度も、感情も。
赤い顔を隠すこともできずに、茅ヶ崎となんの因果か見つめあいながら。

あぁ、もう逃げられない。

全てが止まった思考の片隅で、私はただそれだけを悟った。


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