鼻先を燻る硝煙も、身をくすぐる業火の熱さも、理解することはもう不可能だった。
五感すべてを持っていかれた体のはずなのに、神経のすべてが目の前の一点へと集中している。
とにかく言える事といえば、 冷えた身体に炎は暖かくて優しくかったということ。
ただそれだけ。
それだけを、覚えていればまた自分は―

意識を手放すまであと少しなのだろう。周りの状況すらも判断がつかぬこの曖昧な空間で"彼"は ただ傍にいた者供を残し逝くということに、押しつぶされんばかりの後悔と同じくらいの重さで安堵 を覚えた。
それでいい。
それで、すべてはうまくいく。

誰も見る事の叶わなかった"彼"の今わの際は、涙が出そうなほどに穏やかだった。





火守 第一章 珍客は集う 一


それは、誰にも晒された事のない露のごとく、つつましく美しい庭園だった。
純日本風のその庭は、厳かでいて高貴な気に満ちているのに、いつも白い靄に包まれて不透明であった。
それでも乳白色の途切れた場所から微かに見える築山や渡り石は、素人目で見ても雅趣のあるものだと火守は思った。
恐らくこの庭を手がけた庭師は、センスと腕が伴っていたのだろう。
全てを具に見てみたいものだと思いながらも、火守はため息をつく。
周りを一瞬のうちで曖昧模糊なものにかえてしまうこの靄が、晴れたためしがないのである。
"いつも"そうだから、自分は未だにこの素晴らしい庭園の全貌というものを知らない。
あいにくと歴史に深い興味を抱いているわけでもなものだから、想像しようにも限度があった。
学校の歴史の資料集を何度か開けてみたものだが、どの時代の作品も違いがよくわからない。
気後れするほどに、自分とは関係ない場所。
事実、記憶の隅どころかどこを探してもこの場所と自分の接点は思い出せない。
はずなのに。

いつも覚える感情は、愛しい強さで胸を締め付ける懐かしさだった。
―間違いなく、俺はこの景色を知っている―
本能が歓喜のうねりをあげ、万感の思いがこみ上げる。
帰ってきたんだと、実際現実にあるのかどうかもわからないこの場所に叫びたくなるのだ。

そう。
現実にあるだなんて思うことすら、おこがましい。
ここは、どう考えても自身が作り上げたであろう夢という名の箱庭だ。

背後に沸いた気配に、思わず喉を鳴らした。
自分の背に降り注ぐ視線が、あまりに柔らかくくすぐったいからだ。
何より、この靄ばかりが立ち込める場所で、自分以外の気配のする”なにか”と接触したことが ない。
驚いて不安にまみれながらも勢いよく振り返れば、靄を隔てた数間先に人影らしきものがみえた。
自分よりも背の高い、誰かが立っていた。
服装は民族的なものかもしれない。
はるか昔に、貴族が着ていたかのようなそれ。
ふくれあがった腕の部分に、異様に長く細く伸びている頭の影をみて、資料集の一番初めにのっている 平安時代の宮廷衣装をなんとなく思い出していた。
火守は気を取り直して、その人影をじいとみやった。
近寄る事も、声を出す事も、考え付かず。
ただただ、人影を眺めることだけを考えた。
濃霧の中目を凝らすと、おぼろげな人の輪郭が浮かび上がった。
ちかづていてきているのだ。
感覚で理解して、火守は全身を緊張させた。

ゆっくりと手がこちらへと伸びてくる。
たおやかな動作にふさわしい、白く形の整った手の平。
滑らかではあったが、少し骨ばったそれはあきらかに男のものだ。
何の疑問も感じずに、気づけば自分も自らの手を相手に向かって伸ばしていた。
もう少しで、触れ合える。
わずか数ミリの距離を塞ぐように、指先が触れ合おうとしていた。






ピピピピピピピピ…!!






脳天を突き刺すかのような突然の電子音に、火守 かもりは驚いて目を開けた。
広がる視界は白いながらもどこか煤けた色で、それは十何年もの間毎日火守を見下ろしている 自室の天井に間違いない。
庭園などではなければ、自分の部屋に厳かな空気が流れているわけも無い。
「またかよ・・」
ベッドの上でのろのろとあぐらをかくと、火守は思いため息をつく。
毎夜リアルな夢をみる。
それはいつも同じ場所で。でも同じ時間ではないようだった。
流動する靄の中、時折みえる庭の一部が蕾をたくさんつけた枝であったり、見事な色にそまった紅葉の 時もあるからだ。
「参ったなぁ、勘弁してくれよ」
もう自分は、怖い夢を見たといって親の布団に潜り込む年齢ではないのだ。
中学二年にもなって、取るに足りない些細な夢に悩んでいる。
こんなこと、いくら親友にでも言えそうになかった。
寝癖の髪を手で撫でつけながら、欠伸を一つ。
寝る前よりも疲労が濃くなっているような気がして、火守はくしゃりと顔をしかめた。
もうじき大嫌いな期末テストと、飛び切り愛している夏休みがくるというのにこれはないだろう。
あれだけ静やかな内容の夢なのに、夢見た朝は体がいつもやけに重く感じる事が、少年を見えぬ脅威 に脅かされたような気にさせていた。
(やっぱり誰かに相談したほうがいいのかね)
でも誰にしろというのだ。
神社か?寺か?それとも精神科?
いつもそこで頭を悩ますから、火守はまた毎朝と同じようにそこで考えることをやめた。
とにかく、起きなければ。
悠長にしていられるほど、自分は早起きの類でもないのだから。
のろのろとベッドから這いでて,伸びをする。
夢のことも気になるが、今は学校に遅刻しないことを考えたほうがよさそうだ。
寝ぼけ眼のまま、パジャマを脱ぎにかかった。


身支度を整え一階の居間へ降りていくと、冷めかけた朝食が火守を待っていた。
何十分か前に焼きあがったトーストを彩るように、幾種類かのジャムが均等に縦に塗られている。
色目にわけてぞんざいに裂きながら、右手に持っていた 赤色のジャムが載ったそれを大きく開けた口に押し込んだ。
甘いイチゴの味を舌で確かめながら、火守の手は動きをとめない。
次にほおばるものを左手に待機させて、右手は 傍にひっそりとおいてあった置手紙を注意深く取り上げた。
珍しい事もあるものだと、火守は思わず目を細めた。
両親が忙しく、自分よりも先に家を出るのはいつものことだ。
だけど出かけ際のメッセージなど、そう何度ともらったことは無い。
広告の裏を利用された母からの手紙は、急な出張が入った事を詫びる旨だった。
「また、出張か。帰るのは‥一週間後、ね」
壁に貼ってあるカレンダーで日付を確認したあと、残りの文章に目を走らせる。
「…っ、はぁ!?」
何気なくかかれたその内容に、思わずトーストを吹き出しそうになった。
毎度こうも仕事ばかりで、まったく社会人というものは大変だと悠長に考えていたというのに、 そんなことよりも重大なニュースが火守を震撼させていた。
「うっそだろ、あの『お山のじいちゃん』が!?」
数年来会っていない母方の祖父が、今日から火守宅へ遊びに来るというのだ。
火守の外祖父の事を火守がお山の爺ちゃんと呼ぶのは仕方が無いだろう。
彼はその名のとおり、京都の山のほうにたった独りで住んでいる。
少々変わり者で周りをたじろがせる事がある祖父だが、ユニークで気も優しく、火守は祖父の事が 大好きだった。
幼い頃長期休暇があれば、ずっとそこへ預けられていたからかもしれない。
祖父の存在は、火守にとって実の親よりも大きいものだ。
その祖父が数日といえど、この家へ来る。
喜ぶなというほうが無茶だろう。
緩む口元を押さえきれずに、火守は勢いよく残りのトーストを全てたいらげる。
「布団あったかな。一式だして、日干しするか」
上機嫌で皿をシンクへつっこんだが、居間へと向かう途中で視界にはいった景色にふと今 置かれた状況を思い出した。
見やすい文字盤の上で働く二つの針は、どうみても8時をすぎているようにしか思えない。
「まーじかよー!」
荒々しく舌打ちして、火守は床に投げ出されていたリュックを乱暴に掴み取り、騒々しくリビングを飛び出した。

  

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