火守 第一章 珍客は集う 二


柔らかな陽光が、教室の窓から差し込んでくる。
教壇の数学教師の声がどこか遠く聞こえるのは、まどろみそうになる自分のせいかそれとも この日差し故か。
期末前の緊張感はどこにも無く、火守はただただぼんやりと窓の外を眺めていた。
7月初旬に相応しい空の青さに、白い雲。
纏わりつくような湿気の多さなど微塵も感じさせない爽やかな色を視界の端に 捉え、布団を干してこなかった事をのろった。
とりあえずとばかりに日当たりのいい窓辺に引きずりだしておいたが、それでもやはり外に出したほうが よかった。
(まぁ、じいちゃんのことだから絶対そんな事気にしないだろうけどな)
思い出の中にある祖父は、いつだって破天荒で豪快だ。
祖父の名は星基せいきといって、その名を与えた彼の祖父を 似非ロマンチストだといつも嘯くが、自分に火守という名をつけた彼は血を争えないと思う。
好々爺然とした柔和な顔つきに、その雰囲気に馴染んだ京都独特の言葉回し。
いつも飄々とした様子だが、老獪な皺の隙間からじっと見遣る瞳の思慮深さを火守は身をもって 知っている。
そんな祖父が来るのだ。
まともに授業など受けていろというほうが、火守にとっては理不尽に思えてしかたなかった。
(やってられねぇ…)
もはや役目を放棄したままのノートの上に両腕を置き、そのまま視線を窓の外へとやった。
校門側の三階に位置するこの教室からは、校門沿いにある住宅地がよく見える。
昼過ぎのこの時期はそれほど人が行きかう事もないが、時折買い物帰りの主婦達が忙しなく行きかうの がよく見えた。
(早く帰りたい)
いっそ自分もこのまま教室を飛び出して家に帰ろうか。
そんな事を考えながら、恨めしげに校門を見た時だった。
(…ん…?)
黒ずんだ鉄格子の向こうに、人影が見える。
背格好はそこまで大きくはなく、それでも門越しに見える体型は紛れもなく男のそれに 近かった。
薄いベージュのスラックスに、洗いざらしの白のカッター。
日中最高の温度を記録するこの真昼間において、帽子もかぶらず紙袋を片腕に抱え校舎と対峙する 男。
かすかに首をめぐらして大方見えた彼の姿を前に、火守は驚いて息をのんだ。
間違いない、あれは確かに。
(じいちゃん…!)
何してるんだこんなところでと、冷や汗が出るよりも前に驚愕した。
ここ数年あってなかったのだ。 なのにどうして火守の中学の場所を把握しているのだろうか。
相変わらず神出鬼没な祖父だと変なところで納得を示して、 火守は小さく笑った。
「こら!」
直ぐ傍で聞こえた声に、火守は思わず肩をすくませた。
子供がしめる教室の中で、唯一の大人の声が誰のものなのかなど考えるまでもない。
窓から視線を外せば、教室中の視線を従えて不機嫌な顔の数学教師がたっていた。
「集中しろー、ノートも全然とってないじゃないかおまえ」
クスクスと誰かが笑った声が聞こえる。
呆れた顔の若い男にひきつった笑みを返しながらも、火守はチラリと窓を見る。
(参ったな、こんな時に‥)
授業はあと二時間ある。
それをこんな暑い中、いくら無敵の祖父といえども外で待たせるわけにはいかなかった。
(しょうがない、こうなったら)
「聞いてるのか、神野?」
「先生先生、久保坂せーんせ」
立ち上がって逃げようと席を立とうとしたときだった。
火守の後ろの席に座った少年が、いたずらっ子そのものの顔を人懐っこく笑みにかえて 立ち上がっていた。
「なんだ、師田もろた。こいつと仲いいからって何もおまえまで目立たなくてもいいんだぞー?」
教師の言葉に、教室中から笑いが漏れる。
それでもおじけた様子もなく、師田はただ笑みを濃くしただけだった。
すぐる?」
驚きと怪訝さをこめて振り向いて数年来の友を見遣る。
彼とは中学に入ってからの付き合いだが、二年たった今でもどうにも掴めぬところがあるから やりにくい。
今回も何を考えているのかさっぱりわからず、火守は探るように師田の目を覗き込んだ。
師田はニヤリと一瞬だけ笑い、それから笑顔で教師を見遣った。
「先生、こいつ早退しますんでよろしく」
「「はぁ?」」
「はぁじゃねえだろ、火守。おまえもう今日帰れ?」
ほらよとリュックを渡されて、火守は混乱した様子で友を見た。
うろたえるというよりは呆れた顔の教師までをも視界に入れて、食えぬ友人は 笑みを消して窓の外にちらりと視線を動かして見せた。
「おまえの体調心配して、家族の人きてくれてるじゃねえか。帰れって。あれ確か火守のじいちゃんだ ろ?」
「そうなのか、神野」
確認する教師の声と、一目見ようと興味ありげに窓を覗くクラスメイト達。
戸惑いながらもコクリと頷いて、火守は克をにらみつけた。
(なにもこんな大きく猿芝居することないだろうが!)
祖父を見世物にさせたかのようで、どうにも気分が悪い。
そんな様子の火守にめぐる様子もなく、克はただただ早く行けという。
どうしようかと逡巡している教師の状態を、克は気にしているらしかった。
(くそっ)
「そうだな、俺帰るわ」
「おおよー」
「ってことで先生!俺今日早引けします」
「っ、はぁ!?こら待て、神野!」
うろたえる教師を尻目に机にかけてあったカバンを片手に走り出した。
昇降口へと走りながら、火守は携帯でメール機能を起動させる。
克宛で短く先ほどの例と、それに付随するいくつかの恨み言を書いて送信してやる。
すぐに帰ってこないことから、きっと自分の変わりに教師に捕まっているのだろう。
必要以上に大きくした事は、それでちゃらにしてやろうと決めた。
(克はどうでもいい。今はじいちゃんだよ)
なんでこんなところにいるのだろうか、家の鍵だって持っているはずなのに。
古ぼけた下駄箱の扉を開け、はきなれたスニーカーをひっかけながら、火守はそればかり考えていた。
もっとも、奇想天外をそのまま人型にしたような相手だから、考えたところで 答えなど無いのかもしれないが。
校門へと走り抜ける最中、ちらりと教室を見遣るといまだ同じ場所で教師と師田がやりあっていた。
片方は疑いと呆れの眼差しで、もう片方はあっけらかん飄々と。
その両方が火守の背中にひっかかった。
確かめるつもりなのだろうが、火守としてはすでにどうでもよい話だった。
「じいちゃん!」
もう随分前から、こちらへと顔を向けていた相手に走りながら声をかける。
「火守」
下がる眦に、顔中を総動員して笑うその仕草。
ゆったりとした語り口。名前を呼ぶだけでわかる、京都なまり。
数年間のブランクなど微塵も感じさせぬ姿かたちでこちらへと笑いかけているのは、 間違いようもなく火守の祖父、星基だった。
「なんや」
「なんやって何が?」
第一声がなんやとは、どういうことだろうか。何の言葉が後ろに隠されているのだ。
少しがっかりしたような口調の星基に好奇心をそそられながらも、火守は祖父の傍にひっそりと置かれた革鞄を手に とった。
戦後直後だかなんだかにかって以来、一度も手放した事が無いとか随分昔に聞いた事がある 星基お気に入りのカバンである。
本物の革なのかどうかは火守にはわからないが、それでも彼が大事にしていると知っているから 自分の学生カバンを持つ同じ手とは思えぬくらい、丁寧に握り締める。
あまり重くないことにほっとして、帰りを促そうと顔を上げたら早速視線につかまった。
「少し背が伸びたかとおもったんやけど、そうでもないな」
「あのさ、じいちゃん。俺この前あった時から比べたら大分伸びてるはずだって」
最後に京都に遊びに行ったのが小6だったか。その頃は小柄な部分に入っていたものだが、それでも 中学に入ってからというもの鬼のように伸び出した。
昔の小ささを覚えれば、172センチの現在の背は脅威である。30センチは伸びているはずなのだ。
「さよか。そうは見えんのやけども」
「伸びたって!それも30センチ以上!だってじいちゃんの顔よくみえるもんな」
向きになってそう言い返しながら、火守は星基を帰路へといざなう。
そんな孫に従うがままにのんびりと歩き出して、星基は楽しそうに笑った。
「おぉ。それはええ事やな。話するとき楽しなる」
僅かにあがる声音に、キラキラとした輝きを閉じ込めて嬉しそうに笑い身を細めるその姿。
孫の火守がいうのも変な話だが、まったくかわっていない祖父のその仕草がひどく嬉しかった。

  

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