火守 第一章 珍客は集う 三


「適当に座ってて」
居間のソファにゆっくりと相手の荷物を下ろすと、火守は星基をその場に残して家の奥へと移動した。
家の中で唯一である障子をあけ、朝方慌ててひっぱりだした布団をしっかりとたたみなおした。
窓越しといえども、梅雨明けした太陽の日差しは相当なものだったらしい。
さすがに完璧とはいえないが、それでも予想以上にほっこりとした布団に満足してから、火守は もといた居間へと舞い戻った。
いまだ座らずにいた星基に思わず苦笑して、火守はそのままキッチンへと姿を消す。
冷蔵庫からボトルをひっぱりだすと、ガラスのコップに二人分そそいだ。
「はい、これ」
「ほう、よう気がきくな」
表面にしっとりと汗のかいたグラスを受け取って笑う祖父の柔らかな表情にどことなくこちらの 気もほぐれて、火守は自分の分の烏龍茶を一気に飲み干した。
「だって今日、まじで暑いし。じゃ、俺ちょっと着替えてくるから。飲み終わったらそこの机の上おいといて」
おき場所を示すように空になったグラスを机において、火守は返事を待たずに二階の自室へと 向かうべくリビングをでた。
「あれまあ、いつの間に飛び出したんやろうか」
(飛び出した?)
何か不可解な言葉が聞こえたが、火守には変わり者の祖父に対する抗体ができている。
後で聞き直せばいいやと軽く思いなおして、自室の扉を開けた。
「遅かったね」
「…は?」
今日の夕飯をじっくりと思案していた火守は、唐突に聞こえた自分以外の声に対してやや遅れた反応 を示した。
ドアノブを握ったまま何事かと顔を上げ一瞬で広範囲をさまよった視線は、朝のままの乱れたベッドシーツ の上に済まして座っている見慣れぬ物体を見つけて不審げに眉をひそめた。
「―狐?」
ふさふさの、どちらかといえば白に近い薄黄色の体毛に、鋭い目。
しっかりとこちらを見遣っている生き物は、どこをどうみても狐にしか見えなかった。
「や、待って。ありえないから」
実のところ、目の前の動物の種類など火守にとっては最早問題ではない。
一番注目すべき事は、その狐だかなんだかが、どうして締め切られていたはずだった火守の 家に入り込み、あまつさえ自分のベッドにいるのかだ。
「窓でも閉め忘れたかな」
扉は完全にしめていたのだ。
いくら遅刻しかけだったとはいえ、それを忘れた事は一度も無い。
ということは、あけた覚えもないが居間に面するガラス戸の鍵が掛かってなかったということくらいしか 検討がつかない。
実際鍵が開いてたとしても、どうやってあの大きなガラス戸をこの生物があけたかは納得いく説明が 思いつかないが。
「狐って、意外とかしこいのかね」
犬や猫よりも劣るイメージがあるが、意外とそうではないのかもしれない。
そんな事を呟けば、いつの間にかベッドから降りて火守の足元まで近づいてきていた 狐の目が、不快げに細められた気がした。
「お、なんだおまえ俺の言った言葉わかるのか?」
これはますます賢い奴だとばかりに、当初の疑惑も横においてそんな事を考えていた火守は 狐の口が何かいいたそうに開くのをまじまじと見ていたが、次の瞬間わけもわからず固まった。
「わかるよ!」
「――」
一声鳴くかと思われた狐の口は、まるで人が言葉を使うかのようにありえない動きを見せた 、ような気がした。
実際のところ立派な日本語が火守の耳にしっかりと届いていて、目の前の"彼"が話したのは確実 なのだが、そんなものは現実社会に住んでいる自分にとってはありえない事実だ。
よって、火守はありえない事態に声も出せずに見下ろすしかできないでいた。
(こいつ、今。今、口が動いて、喋ったような・・)
「こっち見てよ!今僕が話してるとこ、しっかりと見てたよね?それなのに、 勝手に幻聴にしないで欲しいな」
まさかな。と、自己完結しようとしたとき、追いうちをかけるかのような 勢いで狐がしゃべる。
「ねぇってば!」
語気強くそんな事をいわれた火守が取った行動は、 無言で奇妙な狐を抱き上げ、第三者の下へひた走る事だった。
「ちょっと痛いって!もっと優しく運んでよ!」
キャンキャンという鳴き声と同じくらい腕の中からこぼれ出る日本語も一切の無視で、 火守は三段飛ばしで階段を駆け下り、そのまま居間へと飛び込んだ。
「じいちゃん!じいちゃん!!」
「んー?なんや?」
ソファの前に立っていた星基は、騒々しく舞い戻ってきた孫を確認するなり 驚いたように目を見開いた。
それからどこか納得したような唸り声をあげると、彼は扉の前でつったままの孫と一匹の傍へ 笑いながら近づいてきた。
「なんや、もう会うたんか。かばんが開いてたから、もしかしてとは思ったんやけども」
「―は?なに?」
「だって星基さん。いくら僕でもずっとかばんの中はしんどいよ」
「いや、待て待て待て!ちょっと待て!」
焦ったような引き連れた火守の声に、彼の祖父は変わらぬ笑みを向けた。
「いやな、おまえさんと会いたいいうから、ここまでつれてきたんやわ」
「――は?」
誰が?まさか、この、いかにも胡散臭く自分の持ちえる常識の範疇から抜け出た狐が?
自分に会いにきた?
京都から、星基と共に?
(どこの与太話だよ)
混乱状態の火守をよそに、星基は危なげない手つきで狐を取り上げた。
「っはー!助かったよ、星基さん。ちょっと!あんな乱暴に掴んでどういうつもり!? 僕このまま死んじゃうのかと思ったよ!」
縁起でもない!と騒ぎだてる狐の口は、やはり言葉に合わせて綺麗に動く。
(縁起でもないのは、こっちの台詞だっつーの)
何度見ても心が拒否するその光景を前に、どこか投げやりにそう思った。
「―火守」
静かに呼ばれた自分の名に誘われるように思考が正常値へと戻っていく。
呼ばれた方へ顔を向けると、祖父が親しげな笑みで火守を手招きしていた。
腕の中にいる正体未確認の狐もどきがいることで、傍による事をためらったが、 そんな彼を見抜く眼差しを前に、火守は動かざるを得なかった。
「こっちに来ぃ」
「―…」
低く静かに響く彼のその声音に、火守はとことん弱い。
普段どおりの星基を恨めしげに見遣ってから、火守はそろそろと彼の立つソファの傍へと近づいた。
二つの視線が、無言で彼の到来を待っている。
なんとも奇妙な居心地の悪さにいたたまれずになりながらも、それでもなぜか穏やかに笑う星基と どこか居住まいを正した狐から視線を逸らす事は到底できなかった。
真正面にたった孫を前に、星基はかわらぬ平静さで腕の中の狐を抱きなおす。
そんな彼の仕草につられるように狐を見下ろせば、祖父の静かな声が居間に響いた。
「火守は、わしの住まいが京都のどこにあるか覚えとるか?」
「…鞍馬?」
「鞍馬も近いけども、あそこはまだ大原や」
源義経がまだ牛若丸と名乗っていた頃身を寄せ修行にあけくれたというあの鞍馬の山の近くに、 星基が一人で住む家がある。
それは住宅というよりも庵といったほうが正しいくらい手狭な小屋で、かつては老僧が そこに居を構えていたのだと教わった気がする。
鬱蒼とした緑の世界との境界線が、かぎりなく曖昧な場所だった。
彼の周りに住む人物も、その絶対的な静けさを好む芸術を生業としたものたちが多い。
多いといっても、数などたかが知れていたが。
そびえたつ木々の合間からときおりとんびが空を舞っていて、お隣さんでもあった 陶芸家に教えてもらって、鳶めがけて餌を投げ与えたりしたものだ。
「近所を散歩して、普段より深い場所に足を踏み入れた時があってな」
山の中に住んでいるといっても同然なあの場所で、更に深い場所へ足を踏み込むということが どれほど危険かという事は、誰よりも星基自身がいつも幼い火守に言って聞かせていた事だったという のに。
無言で驚く火守に茶目っ気のある笑みを一つだけ落として、星基は狐の頭部を優しくなでさすった。
「そのときにな。ように会うたんや。相手が相手で、何分場所も場所や。長い人生、とうとうわしも 狐に化かされたかと胸が躍ったなぁ、あの時は」
「―葉?」
「僕のことだよ。…話の流れから察しなよ、頭鈍いなぁ」
「…おまえは一言多いんだよ…っ」
癇に障ることをいう狐を睨みつけると、一丁前にも葉という名があるらしい"彼"は、ニヤリと笑う。
どこまでも人間臭いその表情に驚きを通り越して憮然としながら、火守は星基へと 話の続きを促した。
「ビックリしたわ。なんせこのお狐さん、開口一番に火守の事聞かはるんやもん」
「はぁ?」
「時期的に、そろそろだと思ったんだよね。だから星基さんと接触した。だって君、京都に住んで ないんだもの!こうするしかないじゃないか」
「ちょ、ちょっと待て!」
拗ねたような葉の事なぞ、どうでもいい。話から見えてくる一つの意志に、火守は今度こそ目を丸くした。
(信じられん、与太話じゃないのか…?)
戸惑いながら向けた視線の先、強いありえないくらいに凛ととした眼差しと姿勢で、葉がこちらをじっと見ていた。
しっかりと紡がれた葉の意志は、躊躇う火守を諭すかのように毅然とした響きで彼を射た。


「僕はね、君に会いに来たんだよ。火守」




  

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