火守 第一章 珍客は集う 四


「ほんと信じらんない!」
「……」
「ありえない、本当にどうかしてる」
食器と水がぶつかる音を遮るように甲高い声が火守の脛のあたりから聞こえる。
人とは違う存在のそれに聞こえない振りを続行しながら、 火守は夕飯の後片付けにこれまでにないほど丁寧に時間を費やしてその声を意識の外へと はじき出そうと努めた。
(聞こえない聞こえない)
その際脳内で自分に対してマインドコントロールを試みるのも忘れない。 全てにおいて余念がないはず のその努力を、悲しいかな、少年の傍に忠犬よろしくまとわりついた怪しい狐は悉く無駄にする。
「いいかげん現実をみなよね、火守のくせに」
「うるせぇ!最後のは余計だろ、こら」
火守のくせにとは何事かと咆哮した火守に動じることもせず、すました狐は白けた眼差しで彼を にらぬように見上げていた。
「どこが違うっての。僕の話聞いてた?僕の存在は認めてるのに、話は信じないってどういうことさ」
「存在だけでも認めてやったのに、ずうずうしい奴」
存在を認めただけでもたいしたもんだといってほしいくらいだ。
洗い終えた皿が纏う水滴を払いながら、火守は傍白した。
火守の考え方というものは、大概は祖父である星基の影響が強い。
全ての事象が形通りに収まり得ないという星基の考え は、なによりあの祖父自体がまさにそれであり、幼い火守はなんら抵抗なくその考えを受け入れ 自分なりにはぐくんできた。
それでも火守は現代の電子社会に属する普通の少年なのである。
誓ってもいいが、 いまだって自分ひとりでこの面妖な狐と対峙していたら存在自体を否定していたに違いない。 自分の頭が正常かどうかも悩んだていたって可笑しくはないと思っている。
それくらい、しゃべる狐の存在というものは、彼の生活においてイレギュラーなものなのに、 当の本人はいけしゃあしゃあと痛いところを突いてくるのだからたまらない。
「だいたいさ、君には想像力ってものがないわけ?星基さんはそんな変な理屈を捏ね回さないでも 僕のことを信じてくれたよ」
「―そりゃ悪かったな。でもな、これだけはいっとく。俺のじいちゃんはある意味普通じゃ無いの !他の奴じゃそうはいかなかったと思うぜ」
順調に片付け終えてから、火守は葉を屈みこんでその顔を近づけた。
「誰彼信じれるわけじゃねえよ。こればっかりは」
「でもそれって可笑しいじゃないか。自分で言ってる矛盾に気付かないわけ?だいたい 信じがたいも何も、君の目の前に僕はこうして存在しているんだからその疑問自体変と 思うけどね」
呆れたような口調で言わても、火守は黙って片付けを続行する。
頑として聞き入れる体制をとらない男に何を思ったか、葉は鼻で笑うかのように細く鳴き声を 一つあげた。
「まあまあ、二人とも。そんなんじゃちっとも話が進まんやないか」
リビングのほうから笑が滲んだ声が、二人をやんわりといなした。
火守が振り返ってみれば、台所の様子を伺うように星基がソファから立ち上がって苦笑していた。
「だって、じいちゃん!こいつが!」
「だって星基さん、火守の馬鹿が!」
片方は下へと指を差し、もう片方は応戦とばかりに尻尾を振っている。葉が人であったならば 恐らく彼だって火守を指差し吼えただろう。
完全にタイミングの揃ったその言葉と声に、星基はおろか当の本人等が驚いた顔で硬直した。
「なんやおまえさん達。綺麗に声揃えていうことでもないやろうに」
星基の穏やかな声に反論する術をつかめず、火守は気まずげに顔を背けたのだった 。




古めかしい木の門は、建てられてからの時を彷彿とさせるほどに色あせ朽ちかけていた。
それでも威厳を失わぬのは建てた当初の面影が在るゆえか。 傾きかけたその門でも、かつての栄華を垣間見えた。
門をくぐれば、そこは不気味な程に重苦しくも淀んだ屋敷が佇んでいる。 来る者も去らずにはいられぬほどの威圧に満ちたその屋敷は、どういうわけが門に比べて腐敗は進んで はいないようだった。
人が住んでいたような気配もないのに、まこと奇妙な事である。
そんな屋敷内部でも、母屋際奥の間は、殊更瘴気が濃厚のように思えた。
きつく閉められた扉は、日本家屋の中に珍しく、倉の戸のように分厚く鋼鉄が使われている。
幾人 の寿命をも超えるほどの年月決して開く事のなかったその扉が、軋んだ音を立てて今まさに開かんと していた。
旧式の屋敷におよそ似つかわしくない二枚扉の併せの部分にこびりついた錆を剥ぎ落とすように ゆっくりと。扉は内からの力によって 完全に開け放たれた。
日の光がゆっくりと未知の領域を白日の下へと晒してい く。
屋敷の概観を彷彿とさせる調度品がいくつか収められたその部屋の中で、人影が動く。
その動きは何処かぎこちなく、緩慢だ。背丈はともかく、骨格からかろうじて男であろうと判別でき るほど、その男は痩せ細っていた。
男の全貌があらわになる。鼻梁の通った顔立ちは美しい部類に入るのかもしれないが、 目つきは恐ろしいほどに鋭かった。
男は自分が開けた扉の向こうを眉根を寄せて見遣った後、一声かける。低く滑らかな声だった。
「‥紅従こうじゅ
「御前に、主」
心地よい間をもって返された言葉は、扉の外から聞こえてくる。
気配もなく、男に紅従と呼ばれた存在が扉の前に現れ こうべ を垂れた格好で跪いていた。 呼ばれた名の意味が充分にわかる深い紅の頭髪は、どう考えても人工的にありえない。 それなのに彼のそれは瑞々しく自然のものに思えてならなかった。
「ふん、誓いを違えなかったようだな。 こう
つまらなぬそぶりの顔の色とは裏腹に、男の声は満足しているように思う。
そんな事も昔と変わりはないのだろう、紅は顔色一つかえなかった。
「よくぞお戻りになられました、我が主」
男よりも低い、よく通る声。それは彼の者を表すかの如く几帳面だ。
男はしばし彼を眺め、それから視線を上へと上げる。広がる視界は、ながらく感ずる事がなかった 陽の光で白く輝いてくれようだった。ただしそれは、男に関して何の新鮮味も感じない。 とうに闇に慣れている彼にしては、少々煩わしいほどの明るさだ。
それでも男は、視線を逸らせずにいられない。この陽の光を辿れば、広大な空がある。そう思うと さすがに万感の思いがこみ上げる。
「行くが良い、紅従。――機は熟した」
呟くように放たれたその言葉に、紅は無表情にも等しかったその かんばせ を薄い笑みで整えた。
「御身の仰せのままに」
声の余韻だけ残して、彼は存在はまた陽の裏の闇にまぎれていく。
一人残された男は、そこでようやくその顔色を変えた。
「このときを待っていた‥。待っていたぞ」
狂気じみた歓喜を含んだ男の声が、静けさの闇を裂いていった。



  

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