火守 第一章 珍客は集う 五
そよりと遠慮がちに吹いた風が、火守の頬を優しく撫ぜる。
思わず目を細めてしまいそうなほどに晴れた空。見下げるとむき出しの大地に黒々とした自分の影が
ある。
そのまま視線で土くれの上を辿れば、苔むした濃い緑と混ざり合うように鮮やかな木々と池がある。
完全に人の手によって配置されたであろう庭園のどこかにいるらしい。
所在無くあたりを見渡して、火守はその動きをぎこちなく止めた。
目にとまったやや遠くにある築山は、かなり見覚えがある。それから微かに逸らした視界の先に見つけた
渡り石を発見して、火守はようやく合点がいった。
(なんだよ、すげえ…。晴れてるの初めてだ)
平素は靄によって隠されているあの庭園だということになかなか気がつけなかった。
白く染まる視界に常に遮られていたため、随所随所の特徴でしか火守はこの場所をいつもの場所と認識していなかったのだから、
それも仕方がないことかもしれない。
視界の大方を遮られていない今、その庭園は随分と違った印象を火守に与える。
柔らかな陽射しがあたりに気持ちよい影を作り出し、気まぐれに吹く風と戯れる
青草をより一層鮮やかに見せる。その様一つ一つをとっても心地よい。
(それにしても、でかいな…。どれだけの金持ちだよ)
現在中ニの火守は歴史を習っている真っ最中だが、歴史は覚える事が多くて苦手だった。
年号やら小難しい名前やらですでに拒否反応が出てしまう。中でも最悪だったのが平安時代だった。
友人の師田の言を借りれば、平安時代は平氏の台頭までさして覚える事がなくて楽だというが、
火守にはどうも平安のおっとりとした文化は馴染めないようだ。
資料集を開けての教師の解説も、あまり真面目に聞いた事がなかった。
それをまさかこんなところで後悔するはめになるとは誰が予測しただろうか。
(これって確かあれだよ、何とか式っていうんだ)
イラストが描かれた屋敷の写真はいくつもあったが、確か平安時代の頁に載っていたものがこんな
形だった気がする。
池すらも有する広大な庭をコの字で囲むかのような建物は、確か特有の呼称があったはずで、
どこが本殿かという事も詳細に載っていたように思う。
それが見事に出てこない。虚しさをかき消すように、火守はだだ広い庭を忙しなく見渡した。
目の前に映るのはまさに庭園の風景ばかりで、火守は反射的に後ろを振り返り歓声を上げた。
「あった!」
十数メートルほど先に、大きな建物の一角らしい廊下が見えた。
(あそこにいけばもしかしたら、あの人がいるかもしれない)
いつも彼が靄の向こうに現れて手を差し伸べるところで夢は覚める。
火守は彼の顔を一度としてみた事がなかった。
おそらくあの人物は屋敷の中にいるに違いない。なぜかそう確信していた。
だがしかし、無情にも
火守が駆けだそうとした時、いつもの電子音が強引に火守を現に引き戻していった。
「―うっそだろぉ、おい」
目覚めたベッドの上で、火守は大げさにためいきをついた。
「あんな夢、ありかよ…」
そもそも夢というのは自分に都合のいいものではなかったのか。
もしそうだったとしたら、どうして火守の夢は火守に対して従順ではないのだろう。
「そもそも、たかが夢をこんなに鮮明に覚えていていいのか?」
(まあいい。今日は収穫があった)
毎度の不安から目を背けて、火守は薄らぎ始めた夢の風景を思い出す。
今日の夢は晴れていたからこそわかったのは、あそこは
ただの庭園ではなくて屋敷であろうという事だ。
確かに大きな手がかりだが、ある意味全く足りていない。何ピースか元から抜けている
パズルをやらされているような心地になって、火守は不快気にのっそりと起き上がった。
が、一匹の狐がひょいと火守のベッドの上に飛び乗り口を開いた事で、不機嫌な顔はあっという間に
ぎょっとしたものになった。
「どうかしたの?火守」
「……びっくりした。まだ夢の続きかと思ったぜ」
「何だよ。僕のことを一夜で忘れるほどの単細胞なの?火守って」
朝から嫌味な口調は思い切り鼻につく。小ざかしい狐は恐らくそんな事すらもお見通しで
話しているに違いなくて、思わずとばかりに低く唸った。
「だから何なのさ」
抗議の声を上げる葉を火守は座った目で見つめ、
「たった一夜で『話す狐』を現実と認められるほど、俺は懐が広くないの!」
と自嘲めいた言葉を吐いた。
ふうんと小さく納得する声が響いたと思った矢先に
ジャブがきて、火守は今度こそ飛び起きた。
「そうでもないんじゃない?自分の夢をちゃんと受け止めてるんだから」
「おまっ!人の話聞いてやがったな!?寝てたんじゃなかったのかよ」
「あのね、
あんな大きな呟き、聞こえないほうがおかしいよ。まして僕は狐だよ!耳良いんだ」
相手が狐だろうがなんだろうが関係ない。焦りや怒りから赤くなった顔で遣り合っていれば、
ぎゃあぎゃあと叫んだ声につられてか、星基がひょっこりと顔を出した。
「朝からやかましい事やな。下まで響きよったで」
「あ、じいちゃん!おはよう」
火守は祖父の顔をみるなり、あわててベッドから抜け出した。火守の中の優先度の比重は、
昨日であったばかりの狐なんかよりも星基のほうが大きい。ピタリと罵る口を閉ざした
のだが、いかんせん相手がそれでは納得しなかった。
「猫かぶり」
膝下辺りから飛び込んできた言葉の発言者はあきらかに一匹しかおらず、火守は引き攣る口元を
隠しもせずに相手を思い切り見下ろした。
「なんかいったか、狐」
「べーつにぃ?ねえ、星基さん。火守がどんな夢みようとも、僕には関係ないし?」
白々しくも切れ長の目を細め、葉は思わせぶりに呟いた。
「ほら、思春期って奴ですよ。星基さん」
「ほぅ、火守ももうそんな歳か」
「っ、こらまて!変な事いうんじゃねえ、狐!」
「変な事って?何必死になってるの?へーんな火守」
それに僕には葉って名前があるんだよときいきいと胸を張っていう狐相手に、不自然なほどに
口元が引き攣っていく。
(この、狐…っ!)
「おまえな」
いい加減にしろと肩を怒らす火守など歯牙にもかけず、葉はただ「おお怖い」と嘯いた。
あからさまにおちょくられている自分にようやっと気付いた火守の一瞬の隙を突いて、
、葉が呟く。
「じゃあ、どんな夢見たのさ」
「た、ただ、ここ数日ずっと同じ夢見てるだけだよっ」
気がつけばまんまと言わされている自分に気付き、火守はため息をついた。
もうどうにでもなれという投げやりな気持ちが占めていたからに総意ないが、情けない事に
一匹の狐相手に口で勝てないという事実が火守を殊更気疲れさせていた。
気を取り直して思い馳せたのは、いつもと同じで違う場所。
「いっつも日本庭園みたいなところに自分がいてさ。目の前に手をさしのべている人がいるんだけど、
霧がかかっていて顔が見れないんだけど。それが今日は違ったんだよな」
「―何が?」
のんびりと聞く星基の足の上で、鋭い目つきになった葉が耳をぴんっと立てて聞いている。
あまりの真剣さに腑に落ちないものを感じながらも、
火守は言葉を続けた。
「今日は晴れてたんだよなぁ。もう、見事なほどに。でも肝心の人物がいないんだよ。
だからその人探してる最中に、起きた」
これもまたいつもと同じ、地鳴りのように鳴り響いた電子音で。
(ちょっと待て、今何時だ!?)
一気に思考が現実に引き戻される。冷や汗さえ流して、火守は腕時計をつけた祖父の手を掴んだ
。
「じいちゃん、今何時!?」
「今か?―八時過ぎやな」
「はっ」
いつもならとうに家を出ている時間で、下手すれば友人と合流している時間である。
常日頃の時間帯でさえ決して余裕ある登校ではないのだが、それでも今の時間には肝を冷やした。
「わるいじいちゃん!いってくる!」
「いっといで」
「ちょっと、僕への挨拶はないわけ!?」
ただでさえ切羽詰っていた火守は、当然狐の言い分に無視を決め込んだ。
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