「こんな出会いもいいではないか」 プチ続編
12.桜咲く




久方ぶりに訪れたその場所は、一年前となんら変わった様子も無くただそこにあった。母校の第二グラウンドの隅でひっそりとさく一本の桜こそ、果恵が母校の社会科教諭である家持章仁に捕まり、更には友人という地位に押し上げたきっかけだ。
「綺麗だなー。校門の桜よりちょっと遅く咲いたからまだまだもちそうだな」
複雑すぎる果恵とは違い、家持はのんきに幹に手を置いて桜を見上げて楽しそうに声を上げた。 時折吹く風に攫われた一片の花弁が、家持の頭の上や肩の線をなぞる様に落ちていく。実に和やかな春のひと時だ。ちょっと前の果恵の心境では受け入れられなかったかもしれない。今こうして、家持相手に目が放せないなどと。
どうしてこうなってしまったのか。乾いた笑みで果恵は己を哂った。一年前、当時の友人曰く『クールな家持先生』とやらが突然目の前に現れた。それからあれよあれよという間に流されて、友人だなんていわれ続けて気がつけば。およそ友人とは思えぬ代わりに、もっと厄介な感情なんて一丁前に持ってしまっている。全く人生何が起こるかわからない。
もう一度桜を見上げてから、果恵は肩掛けの鞄をそっと触る。目当てのものを指先が容易に捕らえた。そして隣には家持、眼前には慎ましく咲く桜。出駒は全て揃った、後は果恵の勇気のみ。果恵はのんびりと口を開いた。
「ねえ先生」
「なんだ。花見酒なら無いぞ」
そんなわけあるか!と軽口に応酬する余裕はまだあるようだ。そのことに安堵を覚えて、果恵は鞄の中に潜ませていた右手をそっと引き抜いた。バレンタインディに勢い買ってしまって以来、冷蔵庫に居座り続けた代物で。どう見ても本命チョコ以外に考えられない程丁寧に包装されたそれを、すっと真横へと突き出した。
「これ、チョコレートなんですけど」
相手の気配が、僅かに曖昧になった。こちらの真意を掴みかねているのはもはや明瞭としていて。いつもと違って優位である状況に、せいせいした。それが刹那のものであっても、今までを思えば貴重すぎるほど貴重だ。ゆったりと普段と変わらぬ口ぶりで、果恵は二の句を紡いで見せた。
「バレンタインに買ってたんですけど、包装の凄さに渡しそびれちゃって」
適度に省いて継げた言葉達は、それでも大方事実だ。相手の反応を窺うように無言が続く。それはほんの数秒であったが、ひどく長く感じられた。高まる緊張を宥めるようにそよりと小風がひらめいた。二人の間に可憐な花弁がはらはらと舞ってやがて地へと落ちる。その美しい螺旋に気を取られた果恵の耳に、最早耳馴染んだ低い声が笑いを滲ませてするりと飛び込んできた。
「面白い奴だな。二ヶ月遅れでくれるのか」
「ええまあ。だって、捨てるの勿体無いでしょう。賞味期限だって切れてないし、なにせ高かったし」
嘯くどころか本気だとわかったのだろう。家持の遠慮ない笑い声が青空に吸い込まれていく。誰もいないグランド場に、その声は良く響いた。
「おまえほんと面白い奴だな、相変わらず」
「どこがですか。先生だってホワイトデイの時、似たような事したでしょうに」
面白い面白いと相手は言うが、果恵の言動がいちいち面白いのだとしたらそれを素で考える自分はなんだというのだろう。 半眼でそう呟いてから、初めて果恵は横を向いた。抗議に入るつもりだった恨めしげな眼差しは、不意をつかれて真円に広がる。てっきり桜に見入っているものと思っていたのに、家持はすでに果恵の方に体ごと意識を向けて果恵をみていた。その目は、あの笑い声からそう像もつかぬほどにどこか真剣で底が見えなかった。
「で、貰って良いのかそれ」
いつもと同じ、低くても心地よい家持の声が静かにそう確かめた。言葉とともに伸びてきた手を認めて、果恵は慌てて腕をあげた。あっけなく渡すわけにはいかなかったのだ。しかし何故か、家持は容赦なく果恵のその手首をすっぽりと掴みとってしまった。
「なんだくれるんじゃないのか」
「あげますよ、あげますって」
口早にそういってから、果恵はため息一つ落としてそっと視線をあげた。家持の怪訝そうな眼差しとぶつかって、余計に気まずい。その気まずさを押しやるように、口から出た言葉はどことなしに粗暴だった。しかし内容は、春ボケもいいところな科白であるに違いなかった。
「ただし。残念ですが義理チョコでも友チョコでもないんですが」
それでも。桜の木の下で、果恵の声だけが響いていた。瑞々しい色で咲く桜の花弁すらもひっそりと息を潜めているような、奥ゆかしい沈黙と緊張がいつしか二人を包んでいる。果恵は最後の言葉を、ゆったりとした口調で言いきって見せた。
「――それでも、受け取ってくれますかね」

後編へ


 (2008年4月7日〜2月20日)
戻る書庫へ本編へ