番犬、油断する


私の妹は、誰よりも可愛らしい。
白畠朋希しらはたともきは、常々そう思っていた。
男名とも取れる名を掲げているためか、気も強くてどこかはねっかえりの自分に比べて、 二つ年下の香乃は、雰囲気そのままに穢れぬ優しさを持つ。
取り立てて美人というわけでもなかったが、それでもどちらかといえば彼女の妹は男女問わず 目をひかれる相貌をしている。
可愛らしくて、優しくて、それでいて感動するほどに素直。
少女漫画の花園から抜け出てきたような妹を、朋希は幼い頃から誰よりも愛してきた。
妹の性格が故に、彼女に対していやらしさを感じた事はない。
小さい頃から健在だった彼女の健気さと無防備さが気がかりだった。
どんどん美しく可愛らしく成長を遂げる香乃に集まる男の視線の意味に、姉の自分は気付いても 肝心の本人がわかっていない。
これは姉の私が、彼女を守ってあげなくては。
そんな使命感を抱いてしまってから、自分の行動は徐々に女らしさに欠けていったのではないか と今では思う。
だが、それで構わなかった。
自分の目が黒いうちは、この可愛らしくも誇りである妹を私が守るのだと。
だから今回も、朋希にとってはいつもの"害虫駆除"の一環であった。
妹を庇うように自らの体で隠し、朋希は標的をにらみつけた。
朋希の数十センチ先に佇む男の制服は、彼女達姉妹が通う高校のそれとは違う。
紺地のブレザーに胸ポケットのエンブレムには見覚えるがある。 朋希の記憶違いでなければ、確か二駅向こうの進学校だ。
それなりに育ちのいいものが通うと耳にしたことがある。
(そらならおとなしく勉強だけしてりゃいいのにっ!)
偏見のまみれたその言葉はいけないことだとわかっているが、今回ばかりは話が別だ。
なにせ朋希の大切な妹に関わっているのだから。
『えっと白畠さん?ちょっといいかな?』
つい数分前にそう呼び止める声を聞いた時は、怖いもの知らずがまだいたのかと朋希の眉がつりあが った。
香乃が朋希の高校に入学してはや3ヶ月。
登下校中、もしくは校内でたいていの男を牽制し勝ち抜いてきた朋希の存在で、彼女を遊び感覚で 連れ立たせようとする男は一気になりを潜めた。
それでもやはり、こうして声をかけてこれるのは彼が他校生で自分の高校ではもはや定説となっている 朋希の役割をしらないからだろうか。自分が何といって相手をのしていくのかも。
(いや!きっとうちの香乃が誰よりも可愛いからに決まってる)
ちらりと視線を後ろにやると、心配そうに姉である自分をみやる妹がいる。
それだけで頬がゆるむのが、自分でもおかしかった。
「香乃、さっさと家かえって一緒にテレビでも見よう」
「う、うん」
目の前の男を完全に無視した朋希の提案にたじろぎながらも、甘く優しい声で頷いてくれる。
(こんな可愛い妹を、そう易々とどこぞの馬の骨にやれるわけないでしょうが!)
さっさと相手をとっちめて、宣言どおり香乃とテレビ観賞といこう。
ひそやかに自慢の空手技に移れるように気を配ってから、朋希はあらためて目の前の男を見遣った。
日に透けて少し明るみを帯びた薄茶の髪と背の高さ以外は、 そこまでかわった特徴は無いように思う。
ただ敵意無くこちらへ向けられる微笑が、今の朋希には大変癪に障るとうだけで。
(いくらうちの香乃が可愛いからって、そんな笑みをこちらに向けるんじゃないわよ!)
彼から守るように妹をさらに後ろへと引き込めば、目の前の男は軽く口角を上げた。
まるで微笑ましいものを見るかのように。
(ふん、なめてかかってるならそれでいいわ。痛い目みればいい)
これでも朋希は幼い頃より空手に関しては腕に覚えがある。
もちろん過剰暴力はいけないが、寸止めで相手を牽制することなぞ朝飯前であった。
「白畠さん?」
揶揄を含んだその声に呼応するように、私は相手の視線をしっかりからめとって睨みつけてやる。
「私の妹に何か用?」
刺々しくする必要も無い。ただ低く警告を含ませて呼んでやれば、大抵の男はここで少し怖気づく。
そんな朋希の予測を哂うかのように、目の前の相手は別段動じた様子も無い。
つくづく嫌な男だという思いを隠しもせず、彼女はずいと一歩男のほうへと踏み出した。
「用なら私にどうぞ。相手するわ」
(だからこれ以上、香乃につきまとうんじゃないわよ!)
言外の意味すらも込めて、唸るように言ってやる。
挑発的なその態度ににも、男は唯の少しも動じる様子を見せなかった。
それが朋希にはますますもって気に入らない。
「―本当?助かるな」
一拍の間をおいて響いた男の調子に、今度こそ朋希は眉を寄せた。
相手の声はあきらかに楽しそうなそれだったからだ。
朋希はしっかりと相手の視線に割り込むように睨みあげつつタイミングを探していた。
隙を突いて一気に走りぬけば、定時の電車にも乗れるし誰にも迷惑がかからない。
それぐらいの瞬発力が自分には備わっている事を、幸いな事に朋希はよくよくわかっていた。
「おねえちゃ…っ」
「!」
瞬間翳った視界に反応したのは体がまず先だった。
無意識に放った拳は、きれいに相手の顎めがけてのびていく。
「おっと、危ない」
「なっ!」
右手首を大きな掌が掴んだ事が、朋希には信じられなかった。
しかけた攻撃の命中率には 自信ではなく確信があった。なのに、いともあっさりと避けられて文字通り 相手の手の中に収まっている。
(こいつ…っ)
もしかしたら相手も武術を嗜んでいるのかもしれないと、端から 念頭に入れておかなければならなかった疑問が今更ながらに頭に上る。
認めたくないが、もしかしたら自分よりも強いかもしれない。
相手の動きをまったく掴めなかったこと。自分が繰り出した技が、あっさりと片手で止められて しまったこと。
それらが何よりの証拠だった。
(やばい…)
唯一の脅しであったそれが、脆くなったという事実が朋希を焦らせた。
それでも妹をおいそれと渡すだなどと考えられなかったから、こちらをやはり笑顔で見下ろしている 相手を思い切り睨みつけてやった。
「香乃にちょっとでも手を出したら、私がゆるさないんだから!」
「お、お姉ちゃん…」
狼狽した様子の、どこか慌てたような妹の声が気になったが、それでもと朋希は睨むのをやめなかった 。
「大丈夫、妹さんには手を出さないよ」
一際大きく笑んだ男の言葉に、今度は朋希が訝しくおもった。
「だってさ」
「っ!?なっ!」
「おねえちゃん!」
相手の片腕がいまだがら空きであった事を失念していたのは完全に自分に非があると 朋希にはわかっていた。
だけどまったく、今の状況が理解できない。
(なっ、な、な…っ)
「何すんのよ!離せ、変態!」
「やだ」
腰に回された手に、体全体で感じる自分とは違う誰かの体温。
妹のために威嚇していた相手にどうして抱きしめられているのかが、朋希には皆目検討もつかなかった 。
(なんなの、こいつ!?なんなのよ!?)
「はなせっていってる!いい加減にしなさいよ、変態!!」
ありえないくらい近くにある相手の顔に今されていることを再認識してまう。
気を少しでも緩めれば、頬を赤く染めてしまうところだった。
「こっちだっていやだっていってるのにな。それに変態じゃなくて 倉越雄くらこしゆう
朋希にしてみれば、相手の名などどうでもよい事であった。
一番の問題は体がいまだ相手によって拘束されていて、かつ自分がどんなにあがいても 相手の腕がピクともしないことだった。
「離しなさいよ、なんのつもりなの!」
近くに過ぎるがために、思い切り頭をそって相手を睨み付けなければならいことが悔しかった。
「なんのつもりって。『私が相手する』って自分で言ってたのに、その言い草はないでしょうに」
呆れた雄の言葉に、朋希は燃えるような怒りの眼差しで見上げる事で真意を伝えた。
「そんなつもりでいったんじゃ―!」
「あーもう。黙って負けを認めなよ」
負け。その言葉に朋希の肩が跳ね上がったのを、相手はどこか楽しげに眺めている。
その視線が悔しくて睨みつける。目を逸らすことは負けているようで、絶対にしたくなかった。
「知らないとでも思ったの?『私に勝てたら』っていつも相手にしかけるんだってね」
じゃあと雄と名乗った男は、これみよがしに朋希の顔を覗き込んできた。
「それは、対象が『妹』じゃなくて『姉』の場合でも、有効なのかな?」
「―は…?」
朋希は相手の言葉の意味をつかめず、ただ雄を見上げた。
(こいつ、何がいいたいわけ…?)
「どういう意味よ…」
「ここまで言ってるのにわからないの」
完全に呆れたとばかりの声なのに、相手の顔はこれでもかというほどに笑顔に朋希はたじろいだ。
眦がさがった眼からなんの悪意も感じさせないから、居心地がわるくなった。
「俺は一言も、妹さんに用があるっていってないんだけど」
「は」
「だからね。はなからあんたに用事だったんだよ、白畠朋希」
「お、お姉ちゃん!」
慌てた妹の声とともに、額におちてきた暖かな感触に朋希は今度こそ頬を赤く染めた。
「とりあえず、恋人からってことで。よろしくね」
朋希という囁きと共に近づいてきた顔に気付いたのは、幸運中の幸運だろうと朋希は思う。
微かに身じろいだ体を押さえつける相手の力に気付いて、せめてもと朋希は思い切り腕で相手の胸を 押した。
少しだけあいた距離に、初めて相手がいやそうな顔を作る。
理由が理由だったので朋希にとっては笑えたものではなかったが、それでも少しはせいせいした。
「ふざけるんじゃないわよ!」
「ふざけてないし。しかも負けたんだから、潔くしたらどう?」
少なくとも相手に今までそれを求めていたんだから、自分ができなくてどうするんだと。
暗に責められているような気がして、朋希は何もいえない。確かに自分は今までその言葉を掲げて 戦ってきていたのだから。
(え、ちょっとまって)
「私はまだ、勝負を挑んではいなかったし、負けてない!」
「戦闘態勢に入ってた。それにこの状態で負けてないとかいうわけ」
決定的な切り札とばかりにクツリと笑う 相手の喉下を、噛み切ってやりたいと思った。
「とにかく」
「―っ」
重なる額と額。雄の愉悦を含んだ低い声が、朋希の耳元でうっそりと響いた。

「これからよろしくね、朋希」

咄嗟に何もいえなかった自分が、今でも朋希は許せない。

続く?

そのとき狼と羊は?:羊、嘆息する  狼、歓喜する
 (2006年9月30日)

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