狼、歓喜する


彼女を見かけた時の感情としていえるの は、一目ぼれという綺麗な言葉とはおよそかけ離れたものだった。
それは、渇望。戦慄ともいえる、本能の叫び。
この子しかないないと。否、この女が欲しいと。あの時確かにそう思ったのだ。
数駅向こうの学校に面白く見目もよい姉妹がいるという噂は前々からあって、 倉越雄も彼女達の存在を知っていた。
初心で可愛らしいと評判の妹・香乃と、そんな彼女を全身全霊で守り慈しむ凛々しい姉 朋希。
どうにもお互いがお互いの事を美化しすぎているような気もするが、実際のところ 全く違った魅力を持つ二輪の花はそれぞれに根強い人気を誇っていた。
そっと見守る者もいれば、思わず手を差し出して姉である朋希に葬られた者もいるらしい。
そんな今時漫画でもお目見えしないような存在は、友人達との話題で時折でてきたが実際に あった事など一度もなかった。
なんともまぁ珍妙な姉妹がいるものだくらいにしか考えていなかったのだ。
だから、学区内の学校数校が集った交流試合があり、そこに白畠姉が出場すると聞いた時も、 周りの友人達の盛り上がりとは別に雄は落ち着いたものだった。
それは当たり前の事ともいえるだろう。幼い頃より続けている空手は生きがいである。
雄にとっては、交流試合こそがメインであり噂の姉を垣間見る事は あくまでついででしかなかったのだから。
まさかそのついでが、こうまで自分の生活に食い込んでくるとは思いもしなかったが。
身長差など跳ね除けるような勢いで睨みつけてくる朋希を前に、雄はニッコリと笑んで見せた。
雄が笑うたびに目の前の愛しい少女は警戒をあらわに妹を庇う。
無防備に程があると思う。初心ながらも聡明な妹の方は、既に雄の希望を汲み取っているというのに 。
いまだに雄は香乃に用があるのだと思い込んでいる。雄は唯「白畠さん」といっただけなのに。
(ま、好都合だけどね)
汚す事のできない騎士然とした瞳の凄絶さに、得体の知れ無い高揚感を感じる自分は異常だろうか 。
(だって仕方ないだろう?)
あの日初めて彼女を見つけてから。決して交わる事の無かった視線。
こちらへ向くことの無かった彼女の顔が、今やっと雄の目の前にあるのだから。
「白畠さん?」
機嫌がいいのを隠せずに、それでも雄はあえてもう一度名を呼んだ。
望みどおり、苛烈な眼差しが自分に注がれる。
彼女の至上の存在である妹ではなく、この自分に。
女傑というに相応しい空気を出す朋希が、雄には愛しくて可愛らしくてしかたなかった。
彼女の背の向こうでどこか諦めたかのようにこちらを見遣る、香乃の視線すらも。
「私の妹に何か用?」
すごみをつけたつもりなのだろう。実際朋希の声には 気迫がこれでもかとばかりに篭っていた。
きっと彼女の常套手段であろうやり口を雄はのんびりと検分する 。なるほどこれでは普通の男なら勇気まで搾り取られてしまうのかも しれない。
もっとも雄にはまったくといっていいほど効果は無いのだが。
むしろ、彼女の気迫と堂に入った気の構え方に惚れ惚れとする。
間合いを詰めて追い込んだらどういう顔を見せるのだろうと、いささか趣味の悪い事を考えた。
「用なら私にどうぞ。相手するわ」
予想通りの言葉に、雄は思わず笑い出しそうになった。
彼女が編み出した今までの牽制方法はいたってシンプルで、されども腕に自信のある朋希らしいもの だ。
要するに妹にちょっかいを出すのなら、まず私の挑戦を受けてたてということ。 それは雄としては好都合すぎる条件だった。
チャンスは彼女から差し出された。みすみす見逃すなど、この自分がするわけがない。
「―本当?助かるな」
ゆっくりとした言葉だけを残して、思い切り踏み込んで肩辺りを狙って手を出してみる。
視界の端でたおやかな妹が短く叫んでいるのが見えたが、今はそんなことどうでもいい。
なるほど確かに女子の部で常に上位にいるだけのことはあった。
(だけど、隙を作った)
それは、気構え。
彼女は雄のターゲットは、自分ではなく妹そのものであると思っている。
だから、こんなときでも無意識的に常に妹に危害が及ばないかで判断するのだ。
それこそが、雄にとっては大きな勝因だった。
彼女とて、空手を嗜むものだ。その心意気に女も男も関係ない。
「香乃にちょっとでも手を出したら、私がゆるさないんだから!」
雄との力量の差を拳を交える事によって理解した、焦りとも取れる表情。
それでもまだ汚されぬ、圧倒的な存在。その眼差しはまだ、自分との勝負に対する闘志が容易に みてとれた。
(たまらないな)
彼女は気付いているのだろうか。その凛とした所作こそが自分を尚引きつけてやまないと。
雄の目にそれは、たまらなく愛おしく見えるのだという事を。
「大丈夫、妹さんには手を出さないよ」 言葉と共にこぼれた大きな笑みに反応したのは、姉ではなく妹の香乃のほうだった。
それだけを視界にとどめて、雄は目の前の愛しい存在を腕の中へと強制的に引き寄せる。
「何すんのよ!離せ、変態!」
「やだ」
もがく彼女からみれば、自分は明らかに変態だろう。 それでも雄は、彼女を手放すつもりは毛頭無かった。
いつも遠くから垣間見ることしかできなかった彼女が、今まさに抱きしめられるほど近くにいて、 決して妹以外に向けられる事の無かった眼差しと愛らしい表情いっぱいで、雄のみを見上げている のだ。
自然と頬がゆるむが、それをとめることなど今の雄には野暮な事に思えてしかたなかった。
「離しなさいよ、なんのつもりなの!」
赤く上気させた頬に、半ば錯乱状態にある瞳。普段しゃんとしたイメージしかない朋希にしては、 本当に珍しく取り乱しているのであろう。
ああして何者もよせつけぬ彼女もいいが、今の彼女もたまらなく可愛らしい。
他のどの男も決して見たことがないだろう彼女の愛らしさに、雄はこの上なく上機嫌で彼女のペース を乱していった。
「知らないとでも思ったの?『私に勝てたら』っていつも相手にしかけるんだってね」
それは噂にもなっていた、彼女のいわば常套手段で。その意味がわからない彼女ではないだろう。
警戒のためか瞬時に引き締まった朋希の表情を楽しみながら、雄は尚も笑った。
「それは、対象が『妹』じゃなくて『姉』の場合でも、有効なのかな?」
「―は…?」
いぶかしげな表情をみせる彼女は本当に意味がわかっていない。呆れながらもそれすらも可愛らしい と思ってしまう自分は、やっぱりどうかしているのだと思う。
種明かしをしようと口を開こうとして、雄はこちらを呆然と見遣ったままの視線を感じてふと 朋希から視線を外した。
どこか諦観したような、でもそでいて釈然としない様子でいる少女。きっと姉の朋希がいうように 純粋で繊細な人柄なのだろう、唯一ついうなれば姉が思っているほどに子供ではないというだけだ。
彼女は朋希よりも人の心の奥を汲み取れる。それは、前々から知っていた事だ。
なぜならいつも、彼女は敏感に姉へと向けられた雄の眼差しを察知し、それから姉を護るかのように 少女同士で身を寄せていたのだから。
彼女の気持ちもわからないわけではない、この姉妹の関係を壊したかったわけでもないのだ。
ただ、朋希という存在が雄をひきつけてやまなかった。
そんな思いを込めて、少しだけ微笑む。それはどこか、思いを共有した戦友に向けるものに等しく、 やはり意味を理解した聡明な妹は、微かに青ざめた後完全に抵抗の切り札を見失ってしまった。
(これで、あとは朋希自身のみだ)
強敵は、白旗をあげてくれた。ならば、責めるは本陣のみである。
「俺は一言も、妹さんに用があるっていってないんだけど」
「は」
「だからね。はなからあんたに用事だったんだよ、白畠朋希」
愛しさを籠めて、雄はその額にそっと唇を寄せる。
「とりあえず、恋人からってことで。よろしくね」
ニコリと微笑んで何気なく縮めた距離を、さすがというべきか彼女は必死になって死守しようとした 。
「ふざけるんじゃないわよ!」
「ふざけてないし。しかも負けたんだから、潔くしたらどう?」
あれだけ他人に厳しくしたのにそれはないだろうと、卑怯な事承知の上で彼女にその意志を伝える。 案の定渋い顔になった彼女に、雄は留めをさすべく動いた。
「とにかく」
「―っ」
こつりと額を彼女のそれへと押し付ければ、涼しげな印象をあたえる切れ長の瞳が大きく見開かれる。
誰もみたことがない距離からの、やはり誰も知らない彼女の表情に、知らず声には愉悦が篭った。

「これからよろしくね、朋希」

確かに何かが動き出した未来に、雄は心から歓喜した。

続く?

その時番犬と羊は?:番犬、油断する  羊、嘆息する
 (2007年2月24日)

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