羊、嘆息する


小さい頃から、香乃の憧れの人というのはいつだって姉だった。
二つ上の姉、白畠朋希。
凛としたた佇まい、テキパキとした所作に、男顔負けの空手道有段者。
妹の香乃には特別甘くて、けど実は困っている人には香乃以外でも迷わず手を差し伸べることができる 姉。朋希に憧れと尊敬を抱く女子生徒は多かった。
ヒーローのような条件を持っていながら、それでも女らしさを失わぬ朋希を女だけではなく その他大勢の男が見ているのを、ずっと姉の傍に寄り添っていた自分は知っている。
もっとも肝心の朋希はといえば、それは全て香乃に注がれているものだと勘違いしているのだが。
どうも姉は、自分には女らしさの欠片もないと思っているようだ。
朋希の言動の端々からそのことが伺えるが、姉が大好きな香乃としては自分の魅力に気付かない 朋希を心配する反面、そんな姉が可愛らしいとさえ思った。
私のお姉ちゃんはこんなにも凛々しくて、可愛らしいと。
いつまでも自分だけの姉でいて欲しかったのだが。
ここにきて、思わぬ強敵と遭遇してしまった。
「私の妹に何か用?」
用件なら私が聞くわと、颯爽と香乃の前に立ち言い放った朋希。
目の前には、背も高くて思わず見とれてしまいそうなほどに綺麗な顔立ちをした男の人が ニコニコしながら姉と対峙していた。
噛みつかんばかりの勢いの姉は、優秀な空手の使い手らしくその凄み方は迫力がある。
だけれども。
(お姉ちゃんたら、どうして気付かないの?)
毛を逆出させた猫のような状態の姉を、それはそれは楽しそうに愛しそうに眺める相手。
香乃は目の前に佇むこの男の存在を、もう随分前から知っていた。
倉越雄。徳真の名将と、高校空手で一目置かれた存在だ。
柔和そうで、はたから見たら他の一般男子となんらかわらない細身の体型にみえる彼は、試合では 一転して男らしい豪快な演技をするのだと、かつて姉と同じクラブに所属する友人から聞いた事がある 。
実際に香乃は姉を応援するために出かけた大会で、何度も彼が絶賛されるのをこの目でみてきた 。
そして知っていた。
試合の時には決して拝めない、蕩けてしまいそうな眼差しで誰を見ているのかを。
朋希が勝ち抜いて、嬉しくて姉と抱き合った時。
おめでとうというと、幸せそうに笑う朋希の傍にいる時は特に。
彼の視線を、強く強く感じていた。
眼差しだけで、彼は人を射ることができるのだろうか。
嫉妬が微かにまじったそれに、震えそうになりながらも相手の様子を伺ったのは、少なくは無い。
そのたびに彼は、今にも肩を竦めてしまいそうなほどに困った顔で、こちらに苦笑をおくるのである。
君だって、他の人だって気付いてるのに。どうして本人は気付かないんだろうね、とばかりに。
「おねえちゃ…っ」
香乃の咄嗟の叫び声に反応した姉の拳は、あっさりと雄の掌に包み込まれていた。
何がなんだかわからないと、焦りを含んだ姉の顔は、正直可愛らしい。
そう思うのはやはり自分だけの意見ではないようで、香乃の視線の先では雄が笑みを深くして 姉の静かなうろたえぶりを心から楽しんでいる。
間近の距離で見ているのだから、よけいに愛らしい事だろう。
明らかに、倉越雄という男は、白畠朋希に気がある。
それなのに、姉の困った偏見はいまだに健在するらしく、雄を睨みつけたまま唸り声すらあげそうな 勢いだった。
「香乃にちょっとでも手を出したら、私がゆるさないんだから!」
「お、お姉ちゃん…」
いまだに事の次第を履き違えている姉に、愕然として思わず声がでた。
それでも朋希は振り返ることなく、目の前の"敵"を睨みつけすごんでいる。
普段なら、どんな小さな呟きでも全て拾ってこちらへ気を向けてくれるのだが。 それほど、余裕が無いという事なのだろう。
空気がピリピリと痺れながらも引き連れていくような、妙な緊迫感が朋希の周りだけ渦巻いていた。
普段の数倍もすごい、時には妹である自分ですらも密かにおびえてしまう 他を圧倒するその気。
いつもならば有効であっただろう。相手が、この人でさえなかったら。
(この人、すごい…)
殺気すら滲んでいそうな姉の気に押される事無く、それどころか笑みはますます深まっていく 男。
蕩けそうなその表情が物語る言葉は、『可愛いなぁ』が最適だろうか。
すごい以外の何の言葉で、彼を形容できるのか。香乃の語彙の中にそれ以上の最適な言葉など、 存在しないように思えた。
あぁ、この人は本当に姉が好きなんだなと。
ぼんやりと考えた先に見えた光景に、思わず声を上げてしまった。
「おねえちゃん!」
姉の体が彼の方へと傾いだかと思ったら、当たり前のように二本の腕の中に吸い込まれてしまって いる。
唖然とするというのはこういうことか。
硬直してしまった香乃を置き去りにして、抱きしめられている姉と抱きしめて放そうとしない高校 空手の有望株がかみ合わない会話を始めている。
「離しなさいよ、なんのつもりなの!」
「なんのつもりって。『私が相手する』って自分で言ってたのに、その言い草はないでしょうに」
「そんなつもりでいったんじゃ―!」
「あーもう。黙って負けを認めなよ」
いちいち肩をいからせて全身全霊で怒る朋希と、彼女のその様をいとしそうに眺めやる 男。しかも姉の居場所はいまだ男の腕の中なのだ。
(端から見たら恋人同士みたい)
口には出せない言葉をしまいこんで、苦笑する。
姉らしくなく、すっかりと相手のペースにはめられている姿が新鮮で、面白かった。
ただし、姉好きな自分としては、姉を我が物顔で抱きしめている存在が少しばかり許せない。
会話なぞ交わした事はない。だけど、倉越雄の態度で姉が好きなことは前々から知っていた。
この男ならば、朋希をとられていもいいといつからか悟っていた。
ただし 他の男と比べれば、の話である。何もはいどうぞと簡単に差し出せると言った覚えはなかった。
固まったまま動けない香乃の前で、話はどんどん雄の有利で進んでいく。
どうしたものかと思案する。自分はとめるべきなのだ。それなのに、どこかそれを戸惑っている ことが香乃にはよくわからなかった。
視線を感じて顔を上げ、衝突したそれにドキリとした。
自分の考えを見透かすような圧倒的な眼差し。大会のたびに背で受け止めていたそれを、真正面で うけとる意味の手ごわさを香乃ははじめてしった。
いつもと違うのは、そこにさすような嫉妬がなく、幾分か手加減されているという事。
そして姉と抱き合っているのは自分ではなくて、雄であるという事。
「…っ」
まみえたままの彼の瞳が、ふわりと和らぐ。
いつも苦笑と嫉妬と、狂おしいほどの姉への思いに焦がした眼差ししか知らなかったから、 そんな顔もできるのだと香乃は驚いた。
そして戦慄する。
笑ったのだ。
ニヤリと、どこか挑戦的に。香乃から一切の視線を外さず、全身の神経を腕の中の存在に定めたまま で。
(…っ、この、人…っ)
それは、あきらかに自分への牽制であり挑発であった。
嘲るでもなく、自慢するでもない。
同じ土俵へ登った事への表明ともとれるそれに、香乃はただ戦慄した。
何もいえなかった。
自分の微かな不満と認めた中にもある寂しさと複雑な心境。全てを承知の上で、 雄は自分へと笑ったのだ。
「俺は一言も、妹さんに用があるっていってないんだけど」
ふと視線を姉へと戻して、倉越雄ははっきりとそう口にした。
明らかに意味をわかっていない朋希に、ゆっくりと諭すように囁く彼の声。
「だからね。はなからあんたに用事だったんだよ、白畠朋希」
「お、お姉ちゃん!」
たまらず、叫んでしまっていた。
そんな香乃の呼びかけから遠ざけるように、 ゆっくりと、酷く優しい仕草で姉の額に落とされる口付けに眩暈を覚える。
真っ赤に顔を染めた姉は、もう自分のことと目の前の男の事しか頭には無いだろう。
抱きしめられたまま、恥じらいと怒りをない交ぜにした表情で相手にくってかかっているが、 あれでは可愛いだけだろうと思う。特にこの男には。
姉へと楽しそうに笑いかける瞳の、なんと真剣な事だろう。
生まれからずっと、朋希の傍にいたのは自分だった。
敬愛する姉を、いつまでも独り占めすることは難しいとわかってはいたけれど。
何も今でなくともよいではないか。
もう少し、ほんの少しだけでも朋希を自分だけの傍にいて欲しいと願うのはそこまで傲慢な要望か 。
葛藤する香乃の頭にこびりついてはなれない、あの眼差しに微笑み。
常に目の前の男は、朋希を視界に移すだけで決して二人の世界を壊そうとはしなかったから。
幕があがる事などないのではないかと密かに思う、香乃すら知らぬほどの心の奥底にあった油断を、 男は恐らく理解していたのだろう。
おそらくそれが、分かれ目であった。雄はまんまと少女達の前に現れて、いまはこうにも相手の 独壇場で話が進んでしまっている。
宣戦布告というよりは、最終通達に近い今目の前の状況を前に、自分はどうしろというのだろうか。

「これからよろしくね、朋希」

雄の堂々とした宣言に対抗する術など知らないから、 香乃はただ嘆息した。

続く?

その時狼と番犬は?:番犬、油断する  狼、歓喜する
 (2006年10月27日)

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