|
Dear Your Majesty 32. 王城は、エルファが知らぬ活気に満ち満ちていた。各国から訪れるのは、市民レベルでも認知できるほどの重鎮ばかり。そこで何のお持て成しもできないようでは、国家の威信に関わるのだろう。それくらいは、アカデミー以上の進学をしなかったエルファはもとより、よほどの幼子でさえなければ簡単にたどり着ける社会情勢の裏側だ。 慌しくも慎ましい動きを保ちつつ行き来している使用人の数は、老若男女関わらず多い。それでも賄いきれぬとばかりに、城の使用人一同は忙しなく動き回っていた。 今もまた、エルファの傍を足早にメイドが数人通り過ぎて行く。常なら仕事のあいまあいまに軽口くらいは誰しもが叩くというクレーラの言を信じればかなりの非常事態なのだろう。国を挙げての主催で、しかも祝われる側であるのだからそれも仕方が無いことだ。そこまでは訳知り顔で理解が及ぶが、その祝われる原因とやらを考えればとたんに情けないくらいに緊張がよぎる。 それでも歩みを止めずに入られたのは、もういい加減エルファ自身も躊躇う事に疲れたというのもあるだろうか。 ライナスはこの国の主たる人物で、彼の祝い事は即ち国の祝い事となる。そんな人物の傍にいたいのだという決めたのだという事実の認識は、確かに必要なのだ。 しかしエルファの場合、今それを考えるのは先走りとしか思えない。何せ自分が傍にいる気でも、相手がエルファをどう思っているのか今のところ手がかりなんて知れている。しかしてそれらは、確信を与えてくれぬと言う事も。 疎まれるほど嫌われているとは思わない。約束を保護するなとばかりに何度も念入りに離婚をしないと言い切ったあの顔は、決して仕方なくとばかりの嫌気が差したそれではなかったのだから、知人程度には嫌われていないはず、なのだ。 帝王学云々などそもそも予備知識に存在すらしないエルファからしてみも、喜劇としか言い様のない主張と理由でエルファを本気で娶った相手。閉じ込められて、暇で窒息しそうなほどの単調な生活を強いられて。 実はそれ以上の苦は、さしてなかったと言う事を今更に気がついた。相手の事をまず知らなければとエルファから近づいた時の、ライナスの表情。年相応ともとれる表情に滲ませた、なにか柔らかであたたかい光。 今はただ、それだけで。恐らく、計画のパートナーとしては気に入ってもらえているのだと。 ――浅ましくも期待すれば、相手も少しは好意を抱いてくれているのやもと考えてしまう。それは推測よりもむしろ夢想といった方が良い領域で、それを知りつつもエルファは願った。 少しで良いから、興味を持っていて欲しい。その好意が、エルファが抱くものと同種でなかったとしても。 己の後の行動は、ライナスの思い一つで極端に代わる。せめてあの断定的な言葉と、表情で相手の気持ちが明快にわかれば言い。 そう願って、エルファは決意を秘め瞳を隠すように瞼を伏せた。 辿った事の無い道筋は、進むにつれ使用人と鉢合わせる回数が減っていく。かわりにどこか人工的な静寂とも言える、警護に従事するものの息遣いが伝わる空間へと変わっていた。 右へ左へと迷い無く進むクレーラの気配に寄り添って歩調をあわせていたエルファが立ち止まったのは、クレーラが唐突に歩みを止めたからである。 慌てて顔を上げれば、見慣れた廊下だった。空に近づいた視界、何処までも密やかな空気、それから―抱きかかえられた経験がある場所。 唯一の移動を許された一本道だった。だから、嫌がおうにも馴染みはあった。 「え、え?」 「ちょっとした近道を使ったまでよ。ほら、呆けてる暇があったらさっさと行ってきな。私は廊下の掃除でもしているから」 エルファの疑問を先回りするかのように先手を切って、クレーラが腕を組んでこちらを見据える。さっさと行けと目が言っていたが、その眼差しはどこか呆れているようにも見えた。 「あ、ありがとうございます!行ってきます!」 叫ぶようにそう言い置いてから、エルファは走り出す。 焦る歩が、足をもつれさせてしまいそうで。ともすれば不安で消えてしまいそうな足取りを叱咤するように、交互にただ足を出し続けた。 だからエルファは、 目の前に迫った扉を前にしてもへこたれずに、むしろ勢いさえ借りる形で躊躇なくそのドアを開けた。 「し、失礼します…っ!」 壁に叩きつけるように開いた扉の前。豪勢な、しかし生活空間としては聊か生気に欠けるその部屋の中央で。 「ええ?エルファちゃん!?」 君、家に帰ったんじゃなかったの?と面食らった顔をして立ち上がったエヴァンスの傍に、珍しくも大きな驚きに包まれた顔をして座り込んでいる、その人こそ。 エルファが、何よりも会いたかった人。 いつの間にか、会いたいと狂おしく願うほどに、エルファの人生に食いこんだ御仁。 「陛下…!」 開け放した扉など、気にしている場合ではない。エルファの全神経は彼の人にしか反応せずに、唯ひたすらに体の中で戦慄いて。 それがゆえに、その場にへたり込みそうになった。事実、へたり込んでしまったのだと気づいたのは震える両脚が冷たい床と温度を共有しつくしてからだ。 腰が抜けるほどに、視界に移るその人物の存在に安堵した。大袈裟でもなく、そうとしかエルファには表現のしようがない。 「エ、エルファちゃん!?」 「―よかった、よかったあ…」 もしかして、二度と会えないのかもしれないと思っていた。自分から会いに行こうと腹を括ったはいいけれど、それでも不安は拭えずに。心の奥底から這い出たそれらを振り切るように、ひたすらに走りついたから。 これからが正念場だというのに、この様だ。 (それでも。これからまたもう二度と陛下とはかかわりの無い人生になったとしても。今こうして会うことができて良かった・・・っ) さあ後は、問いかけるだけだ。 ようやっと人並みの判断能力が落ち着きを取り戻した時、一番最初に捉えたのは人影だった。 しゃがみこんだエルファを真上から覆うようなその影が誰のものかなど、誰何をする暇もなく。 まるでいつかの再現のように体ごと持ち上げられたエルファの眼差しを、深い漆黒の双眸が真っ直ぐに捉える。もう何度も魅せられたその瞳に宿るものを探るよりも先に。 ライナスの引き結ばれた唇がついと動き、エルファの次の手を封じ込めてしまった。 「おまえ、どうしてここにいる」 力強いその声は、会いも変わらず堂々としている。エルファをついぞ恐縮させてしまったその声も、今は全く持って恐くない。華美な修飾を削ぎ落とした語彙も口調も、いまではライナスの性格からして彼らしいとさえ言える。 それだけ近づけたと言う事。そうして、合わさった眼差しから伝わる胸内をかき乱す切ない思いが。エルファのパニックを取り払い、いつもより饒舌にさせた。 「わ、私・・・っ。あなたに、あなたに会いにきたんです」 愛しているとか、好きなのだとか。そうした具体的な表現は、まだこの思いに当てはめても良いものか迷う。だけれども確かに言えることがあり、それがためにエルファはいま再び、王城へ舞い戻った。 「今だって、正直やっぱり理不尽な結婚だったと思うけど。―結婚したという実感だって無いけれど。陛下を人生の上でパートナーとして見れるかはまだまだわからないけれど。今一番はっきりとしている事を伝えにきたの」 そこからどうなるかなぞ、わからない。たどたどしい言葉で紡ぐ言葉の貧相さに泣けてくるが、それでもエルファの精一杯だ。伝われば良い。思いを言葉に載せられるのなら、せめてこの眼がこの腕が。少しでも伝わるようにと、エルファはただライナスだけを見詰め続けた。 「―あなたの傍にいたい。だけど、私は弱いから。陛下の、あなたのお心次第でこのまま立ち去ります。それでも。もし、あなたがいいというのなら、…傍にいても良いですか?」 エルファの言葉が途絶えれば、そこに横たわるのはただ長い沈黙と。絶える事無き眼差しがそこにあった。 そんな場合ではないのに、胸が高鳴る。毎度毎度惹きこまれるその眼差しに、悉く弱いという自覚はあった。 見惚れてしまった視界の先で、ライナスの唇が再びゆっくりと蠢く様を。エルファは緊張と陶酔の合間でただ見とめたのだった。 |