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トリッキーな君達へ 第一話
「羽丘さん」 背後から聞こえる声を、私はあっさりと黙殺した。 「羽丘さん」 尚もかけられる声も、やっぱり聞こえない振りをする。 私の名前は"羽丘みちる"だから、間違いなく私に対する呼びかけなのだが、 私はまだ聞こえていない振りをする。 自分でだって非常に失礼なことをしているとわかっている。 誓っていいが、普段は絶対にこんなことをしない。すぐに振り返って相手の用件を聞くだろう だけど今はそれができない。というか、したくない。 要するに話しかけてる奴が私にとって問題なのだ。 「羽丘さんってば」 うるさい、私は今仕事中だ。 実際もうほとんど終わってしまっている今日の分の書類をさも新しい仕事かのように手に持って 慎重にめくる。 「それ午後一で処理すんだ奴ですよ」 そんな私の行動を見越していたかのように笑いを含んだ奴の声が、かなり間近から振ってきた。 くっ…、悔しいほどにいちいち正確な奴。 思わず引きつった口元を見てだろう、さらに深くなった奴の笑い声が猛烈に気に入らなかった。 「ってか、いいかげん人の呼びかけに答えてくれませんかね。羽丘さん?」 手に持つ書類どころか、私の視界に影がさす。 間違いなく彼が私のデスクの前に立ちはだかっているのだろう。 どうせなら、声をかけられたあのときに知らぬ振りをして席を立てばよかったのだ。 はぁと知らず息を吐き出して、私はいやいや顔を上げた。 サラサラの黒髪の下にある、妙に可愛げのある笑顔が気に入らない。 男のあんたにそんな笑顔されたら、女の私はどうすればいい。 まったくもって気に入らない。 おそらく私の顔は今、最高に不細工だろう。 目の前のこの男と反比例だ。 「何ですか、茅ヶ崎君。何か質問でも?」 わりと事務的な声を出すことに成功して、私は内心ほくそえんだ。 チラリと時計を見遣れば、珍しくもまだ六時過ぎ。 今から帰ればゆったりとした夕飯が楽しめる。 さっさと打ち切ってしまうに限ると、私は矢継ぎ早に口を開いた。 「ないのなら、そろそろ失礼するわ。私も少々忙しいのでね」 簡単簡単、ついでにいえば楽勝だな。 柄にもなく嬉しくなって、私はそのまま立ち上がった。 机にしまったままだった鍵を取り出して、全ての引き出しに鍵をかけていく。 かけ終ってから、半ば忘れかけていた人物がいまだ人のデスクの前でとおせんぼしていることに 再度気付いた。 用件は何だと聞いたのだから、答えればいいのに。 苛立ちながらも相手の真意が読めずに顔に目をやって。 にやっと笑った瞳を見つけて、一気に体が硬直した。 「それって、今日はもうあがれるってことですよね?」 さっきと笑顔はかわらないのに。瞳がキラリと光った気がする。 引きつりながらも私は小さく首を立てに振った。 「ふーん…」 ふーって何だ、ふーんって。 「で茅ヶ崎君。質問は何?御察しの通り、私もうあがるから。早くして欲しいんだけど」 忙しいんだからと、言外に匂わせて言ってやった。 本当のことを言えば、まったく忙しくない。 家に帰ってゆったりまったりすごしていつもより早めにベッドに入る。 ここしばらく遅く帰ってばかりだったから、ご褒美をかねて大好きな中華屋に顔を出すのもいいかも しれない。 それか、部屋で篭ってパソコンいじったり本読んだり。 するとしたらそれぐらいか? どちらにしろまぁ、こやつに時間を割くより数倍有意義な時間なのである。 「そうですね、じゃあ行きましょうか」 「は?」 行くってどこに。 「いつごろ仕事終わりそうかが知りたかったんで」 やられた―! もしかしなくても私、墓穴を掘ったか…? タラリと流れた冷や汗さえもこいつに気付かれたくないというのに。 固まった私の思考を再度動かそうとするかのごとく、 楽しそうな茅ヶ崎の声が耳から飛び込んでくる。 「俺も今日は早く終わったことですし、食事もゆっくり食べれますね」 ………は?食事? 「え…っと。茅ヶ崎君?」 嫌な予感がする。猛烈に嫌な予感がする。 引きつった顔を隠すことすら忘れて、私は思わず立ち上がった。 ガタリと金属と床がこすれあう嫌な音がして。 それだけじゃあ足りずに数歩後退した私は、やっぱり上ずった声をなんとか搾り出した。 「じゃ、じゃあ食事でも何でもごゆっくり。私は帰る…っ」 帰るから。じゃあねバイバイさようなら。 一息つかずに言い切ろうとした言葉の最後は、なさけなくも知りきれとんぼ。 私の右手首をガッシリと掴む大きな掌が逃がすものかとほくそえんでいるようにすら見えた。 これがまた経験済みで、なにをしたって外れないんだ。手錠かなにかかってくらいに。 「ち、ち茅ヶ崎君、聞きたくないけど一応聞いとく。この手は何、かな?」 この手は、って時にこれみよがしに左右に振ってみた。 太い太い私の腕の動きに一寸違わずついてくるしなやかな右手。 …なんというかもう、やめてくれ。 「何って何言ってるんですか、羽丘さん」 ニヤリと笑うその顔!頼むからやめて、本当にやめてくれっ。 「一緒に飯食いに行くに決まってるでしょ?」 「…なんで私が君と夕飯を食べに行かないといけない?」 ちょっと冷静になって言ってみた。引きつりながらも行かないんだとその表情前面に 押し付けた笑顔で爽やかにもいいきってやったのに。 「なんでって。自分が一番わかっててそう聞きますか」 知るかそんなこと。知る機会があったとしても、断じて知りたくないぞ私は。 手首を掴まれた場所を、眉を寄せて睨みつける。 外れてくれないかな、そしたらこのまま振り切って走って逃げるのに。 おデブちゃんが全員トロイと思ってたら痛い目みるぞ。 反射神経と瞬発力はかなりのものだからな、私。 「とにかく、この手を離してくれる?」 いつものように睨み返す。 「嫌です」 返ってくる言葉もいつもの通り。 ―そう、"いつも"のことなのだ、悲しいことに。 何が楽しくて、わざわざ会社の後輩に毎回毎回手首掴まれ笑顔で脅迫されにゃならんのだ。 悲しいというより、毎度やり込められるものだから腹立たしい。 とにかく外れろ、外れてしまえ。 ここから先のフレーズは、聞きたくない。 「忘れたふりしても、無駄ですって」 ほうら来たよ、いつもの科白のご登場。 聞きたくなくて耳を閉じたくても、片手は拘束されてるしもう片方も動かない。 当たり前だよ、なんでいつの間にもう片方の手も握ってるんだ!? まったく気付かなかった私もどうかしているが、さりげなさを装った奴の行動には いつになっても慣れないしついていけない。 最後のあがきで顔を背けようとしても、それはできない相談だった。 明らかに彼の笑顔に、そしてその迫力に押し負かされている。 タラリと漫画並に汗を流せば、ニィと彼の口の端が上がる。 思わずひっと声を上げた。 「言ったでしょ?俺はあなたが好きなんだって」 そう、そうなのだ。 この男、数ヶ月前に突然そんなことを言い出した。 ―ありていにいうならば、…告白された。 それも正面きって堂々と。 もちろんその場の冗談だと思った私は、適当に笑ってあしらって。 それで終わると思っていたのに。 その日から、何十日も経っているというのにこりずにいまだそんなことをいってくる。 人の目なんて気にしてないのか、それとも初めから存在に気付いてもいないのか。 こうやって今みたいに、会社のどこでも顔を突き合わせるなら それで終わり。いいように翻弄させられる。 そのせいだろうか、 なんだか職場の雰囲気もどこかおかしい。 そんなことに気付かない私ではなかった。 好奇の視線がいやおうなく私の大きな大きな背中に突き刺さってくるんだからたまらない。 総務課の女の子達の視線は特に痛いな、もう敵意溢れまくりで。 なんでか知らないけど読めない真意で私なんかに告白を続ける茅ヶ崎は、 社内でそれなりの人気を獲得しているらしい。 誰かが爽やかな感じでいいとしきりに騒いでいたが、私から言わせればそんなものは"被り物"なので ある。 考えて見なさいな、皆。 爽やかな奴が、こんな陰険というか実に策士的なことをするか? 「おーい、羽丘さん」 放心してしまっているようにみえたのか、茅ヶ崎はブンブンと私の目の前で手を振っていた。 コイツに関しての黙考、いいかえるなら現実逃避までをも許してはくれないのか。 外されて自由になった左手に気付いてそのまま逃げようとすれば、右手にさりげなく負荷がかかる。 簡単に腕を引っ張らないで欲しい。物理学の定義というややこしいものが存在する限り 私の体はどうなるのかだなんて一目瞭然で。 抱きとめられてなるものかと自慢の体重を上手に使い、すんでで踏ん張ってやった。 そんな恨めしい顔をしたって知ったことじゃない。 久々に奴の思い通りにならずにすんだと、私は密かにご満悦の笑みを刻む。 上手にあるていどの感情を抑えた 小さな微笑みだから多分誰も気付いてはいないけれども、勝ったという充足感が体中を 駆け巡っていた。 あぁ、なんて気持ちいいんだろう。 小さな勝利をかみ締めるように味わいながら、私は内心ため息を吐く。 いつまでも意味の解からない遊びに付き合えるほど、あいにくと私は暇でもないしやさしくもない。 そう、私は茅ヶ崎の告白を本気とは受け取っていないのだ。 私は太っているし外見で好きになってもらえるタイプではない。 かといって中身もさして良いわけでもないし、更に言えば中身を知ってもらえるほどの付き合いを 社内ではしていないといっても間違いではない。 同期のほんの一握りぐらいしか、手放しの私を知らないだろう。 図体だけデカクテめだって、中身は内気で暗めというわけでもないけど、騒ぐのが苦手。 そんな人物像を持っているに違いない。実際それとなくそう演じてきたつもりだ。 ただでさえそうなのに、ここ数ヶ月前まで直接の会話をほとんどしたことがない茅ヶ崎が 私の何を知っているというのだろう。 前々から思っていることなのに、いつも口に出掛かってとめてしまう。 きっと後輩の奴らが絡んでるんだと思う。 一人毛色の違う私の存在がおもしろいのだろう。 きっと賭けかなにかをして、茅ヶ崎が実行する役になってしまったのだろうと推測している。 別に好きなようにしたらいいと思うが、おとなしくそれに流れるのは私の些細なプライドと 性格が許さない。 だから今のは、ちょっとした思いの浄化、もといストレス発散になった。 茅ヶ崎の見え透いた罠になど、かかってやるもんか。 神は私に味方した!と一人嬉しくなって心内で舞い上がった。 とにかく気分爽快な私は、まだ自分はそのとき確かに 彼のテリトリー内にいることを綺麗さっぱり忘れていた。 だから右手が再度ひっぱられたことにも、 覆いかぶさる影に反応を返すことも出来ず。 「……っ!」 格段に距離が狭まった奴との距離に、焦るよりも先に呆然とした。 茅ヶ崎。君、ここが職場ってこと忘れないか!? 人がまばらといえど、このフロアにはまだ帰り支度すらしてない社員がいて。 顔をしかめてこちらを睨む者は…、なんでかしらないがほとんどいない。 というか、誰だよ!『茅ヶ崎、いいぞー!もっとやれ』とか言った奴はぁ! 『さっさと家帰ってからいちゃつけよ、二人とも』って、 君こそさっさと帰りなさい、お酒のはしごなんてしてないでさ。 狂ってる、絶対この会社狂ってる…! それでいいのか、日本人!と嘆く私の耳に、クスリと小さな笑い声がすべる様に入り込んだ。 いうまでもなく目の前の男の笑い声だ。 そのまますっと耳元へ顔を寄せた茅ヶ崎。抵抗する間もないくらいに、ごく自然な動きだった。 「逃げられると思ってるなら、そうそうに諦めたほうがいいですよ」 「不可能ですし、逃げるなんて。俺があなたに惚れてる限りね」 恐ろしい死刑宣告に ぎょっとして顔を上げたら、ニヤッと笑った茅ヶ崎と視線がぶつかった。 どこが爽やか!?というくらいに策士な表情。 さりげにブラックな感じがしたのは、絶対に私の気のせいじゃない! 結局その日は、家に直帰もできず、かといって馴染みの店にも行けずじまいで、 茅ヶ崎に引きずられるままに夕飯を食べに行った。 それしか、私に道は残されていなかったんだ。 あぁ、神様。 私ばかりが世の中不幸や災難の渦中にいるわけじゃあないことはわかってる。 むしろ私の悩みなんて、世界中を見渡せば本当に些細なことなのかもしれないが。 それでもどうしても切実に叫びたい。 私が何したって言うんだ―!?
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