トリッキーな君達へ 第三話(中編)


小型のやかんといえども、入れられた水の量は決して一人前ではなかった。
一人でそんなにも飲むのかと思わず茅ヶ崎を見遣ったら、胡乱な眼差しが気に入ったのか ニコリと綺麗な笑みをこちらへと向けてみせた。
「一人で飲んでも味気ない。もう一杯くらい付き合ってくださいよ」
いけるでしょ?と静かに問われ、戸惑いながらも私は首を縦に振った。
このまま掴まれた手首が開放されることはしばらくはないのだから、 どうせならお茶ぐらい御相伴に預かってもいいのではないかと思ったのだ。
茅ヶ崎が今まで私にしてきたことを考えれば、 それぐらいの我侭と傲慢なら許されると思う。
むしろ、おつりが来るくらいの安値での仕返しである。私の良心に感謝してもらいたい。
などと尊大にして横柄なことを考えているが、決して口には出さなかった。
あたりまえだ、私とて馬鹿じゃない。
ささやかとは名ばかりの報復などまっぴらだった。


だというのに。


なんだか落ち着かない。
居心地が悪いとまではいわないが、妙な違和感の残る感覚に私は首を傾げる。
プツプツとやかんの底に出来上がる小さな気泡のはじける音すら聞こえそうな、奇妙な静けさだった。
あぁ、そうか。茅ヶ崎のせいだ。
妙に納得しつつ、私はチラリと横に視線をやる。
そうだ、茅ヶ崎だ。
奴が何故か静かなのだ。
彼との間の会話は、たいていが茅ヶ崎主導だ。
それもよくよく考えれば当たり前の話で、私が主導権を握ってしまえば、即ちそれは会話の終わりと 私の撤退を意味するのだけど、 彼は毎回それをよしとはしない。
茅ヶ崎とて常々口を開いて話してるわけじゃない、だけど間を読むのが上手い男だと いうことは彼と会話を交え始めて、直ぐに気付いた。
なんといえばいいのだろう、 少ない会話の中から、簡単に相手の尻尾を捕まえてしまうというか。
愛想悪くいこうと思っていても、いつの間にやら入らぬ話なんかに華を咲かせてたりとか。
用心してたのに、やっぱり気がついたらあっさりと彼が望んだ答えを差し出していたなんて ざらである。
私がだまされやすいのか、奴の舌が他人の数倍良く回るのか、どちらともいえないが。
それでも 広がる沈黙の中、今更ながらに理解する。
いつものあの気まずさを感じない言葉運びは、この茅ヶ崎のおかげだったのだと。
その、なんだ。なら今回は私から話しかけるべきだろうか。
私は落ち着きをなくして、意味も無くヤカンや天井の角をうろうろと見遣る。
とどまる事をしらない私の視線は、そのまま壁沿いにすすと降りて。
最終的に彼の横顔へと焦点を合わせたとき、そのときを待っていたかのように すっと茅ヶ崎がこちらへと顔を向けた。
「い…っ」
「いってなんですか、失礼な」
柔らかく苦笑する茅ヶ崎と対照的に、私は歪んだ苦笑いだ。
だってそこで急に顔をこちらへと向けるだなんて思わなかったのだ。
思わず漏れたうめき声の事実を押し隠すように、私はそっと自らの唇を手で覆った。
自分だって、そこまで厚顔無恥じゃない。
例え相手が茅ヶ崎であっても、失礼な事はしてはならないのだから。
「―ごめん」
だから私は、ポツリと自分の誠意を言葉にして現す。
狭い給湯室の沈黙を、私の体に反してか細い声がゆったりと引き裂いていった。
私の謝罪に、茅ヶ崎の形のよいアーモンド形の瞳が驚きに見開いた。
それから、ゆるゆると笑みの形にほころぶ様を、私は視線を外すことなくみやっていた。
情けない話、正直見惚れてしまった。
サタン顔負けなことばかりするものだからついぞ忘れがちになるが、茅ヶ崎の顔は一般の標準より 上、らしい。
私にはまったくわからないが、 時折覗く微笑が沢爽やかでいいと多くの女子社員が口を並べていうらしい。
控えるときは控え、出るときは出る。
それでいて、その年のわりには礼儀を知っていると古参の方々からのうけもいい。
―私から言わせれば、すべて真逆なのだけれども。
確かに、仕事上でいけば彼は礼儀を知っている青年だと思う。常識だってあるし、どちらかといえば 博識なほうか。
控えめというところは多いに首をひねりたいが、たしかに仕事での茅ヶ崎の対応は筋を通しつつも臨機 応変で頼もしい。
だけど―。
爽やかな笑み?
何をバカな事を、と私はお嬢さん方一人一人に説いてやりたい。
いいか、諸君。私の解釈からいけば、 茅ヶ崎の笑みは三種類。
胡散臭い事この上ない似非爽やかな笑み、悪魔直伝意地悪な笑み、 それからサタン御降臨の笑みだ。
かくして黄金の茅ヶ崎スマイル三段方式。
この類を漏れるものは、無い。

―はずなのだけれども。

だが今はどうだろう。
私は愕然とした気持ちで茅ヶ崎の笑みを見遣った。
眦は優しいカーブを描き、くっきりとした二重の下にある瞳には暖かくどこか甘い色を宿していて。
思わずこちらが赤面してしまいそうなほど、どこか面映い笑みを浮かべていた。
漫画やドラマの世界じゃいざ知らず、まさか自分が 男性からそういった類の微笑を向けられるなんて事はかつてもなければ これからもないと思っていたというのに。
むしろそんなこちらがこそばゆく意味もなく声を上げたくなるような行動をとるのは、 二次元の男の特徴だと思っていたから、驚いた。
女の私でだって、そこまで綺麗に優しく甘やかに笑うことなんてできない。
不可能だ。
逃げ出せるものなら逃げ出したいという思いと、もう少し見ていたいという相反する思い を見つけて、私は愕然とした。
どういうことだ、私。しっかりしろ私!
慌てて視線を振りほどいて、私は休息に乱れた動悸をたちなおすべく、必死に冷静さをつくろった。
これなら手首を力任せに拘束されるほうがましだ。
ダメだ。
その笑顔はダメだ。
裏に何も潜んでいない笑顔だなんて、綺麗すぎて振り払えない。

「羽丘さん」
「な、何」

多少上ずった声になったのは勘弁して欲しい。
慌てて視線を茅ヶ崎に戻して、戻さなければよかったと後悔した。
女子社員いわく"爽やか笑顔"な彼らしくもない、真剣な顔をした茅ヶ崎がこちらを じっと見遣っていた。
意地悪い笑みを浮かべているわけでも、この前みたいに怒っているわけでもない。
ただ恐ろしいくらい真面目な顔をした茅ヶ崎。
真摯さを秘めた夜の帳のような瞳がじぃとこちらを伺っているだけ、なのに。
見えぬ圧力を感じるのはどうしてだろう。
普通の女の子はこういう場面ではときめくのかもしれないが、私には違う意味で動悸が治まらない 。
何かあるんじゃないかと勘ぐってしまう。
「茅ヶ崎君?」
ひきつるなよ我が声と無言で唱えてから、私は彼の名を呼んだ。
だけど奴はただこちらを見遣るのみ。返事を返してくれない。
「茅ヶ…」
緊迫さえ漂った沈黙やいつもと違う妙な雰囲気に耐えられなかった。
経験した事が無い、こんな感覚。
だけど何故か、反応を返さない茅ヶ崎が。
瞳だけ物語る茅ヶ崎が怖かった。
「俺は」
茅ヶ崎が唐突に口を開いた。
低い彼の声が私の肩を弾ませる。
構える術すら忘れて、近づく茅ヶ崎の顔を私は馬鹿みたいに呆然と凝視した。


の、だけれども。



「俺って男なんですよね、羽丘さん」




「―う、ん?」
何が言いたいのだろう、この男は。
猛烈な勢いで襲ってきた頭痛と戦いながら、私は呆然と彼を見た。
い、意味がわからない。
茅ヶ崎が男だなんて言われなくても皆しってるじゃないか!
これは何だ、新手のいじめか。
まるで天気の話をするかのようにいいやった茅ヶ崎の言葉に、私は呆然とする以外に 何ができたというのだろう。
当惑しつつも彼の顔を見遣れば、言葉とは裏腹な真剣な顔を崩さずに、茅ヶ崎が黙ってこちらを 見据えていた。
私は縋るように茅ヶ崎を見た。
私の視線の意味を、聡い彼が気付かないわけが無い。 なのに茅ヶ崎は、ただ黙って私を見ている。
それだけだ。
次の句を話そうとしないのだ。
会話の先が見えない。なによりも、茅ヶ崎の真意が読めずにいた。
「えっと―、茅ヶ崎君」
「はい」
私の呼びかけに、薄く笑って応じた茅ヶ崎。
その笑みに、何故かほっとする私がいた。
たった数分だけのご無沙汰だったというのにだ。
自分の心境がわからずに首を傾げつつも、それでも私は果敢だった。
嫌な予感が背筋をぞわぞわと駆け巡っていった。いつものあれだ。
なにか絶対、絶対巧妙な罠があるはずなんだ。
びくつきつつも、棄権するという行為を取り上げられていることを、私は嫌々ながらも正確に 理解していた。
結局私は前に進むしかないのだ。
ため息をつきつつも、私は用心深くも口を開いた。
「君が男だってことは、多分そんなに宣言しなくても皆しってると思うけど」
あぁ、こんなことしかいえない私を、神様どうか許してください。
だけどうかつな事もいえないって思ったら、気のいい言葉なんてまったく思い浮かばなかったんだ。
「うかつな事はいえないって顔してますよ」
クツクツと笑う低い声の指摘に、私は恥かしくなって俯いた。
そんなに露骨な顔をしていたのか、私は。
自分では結構、ポーカーフェイスという名の分厚い 仮面をかぶれていると思っているのに、どうしてこうも茅ヶ崎の前ではそれが道化にな ってしまうのだろうか。
恥かしいと思いつつも、悟られまいと私は急いで顔を上げた。
それからはたと気付く、彼の顔と私の顔の距離。
あのなんだ、…うん。
よくはわからないけどこれは一般的に言う先輩と後輩の距離のとり方 じゃないような。
もっとぶっちゃけていうならば、その、 ち、近すぎやしないか…!?
吐息すら聞こえてしまうのではないかと思うくらいの距離。
さすがに可笑しいだろう、これは!
もう一ついうなら、なんだか嫌な予感がする。
「ち、茅ヶ崎君?」
「なんですか?」
ニッコリと笑った私の顔は、さぞやひきつっていたことだろう。
なのになんだろう、目の前の茅ヶ崎の笑みは。
歪み一つ無い。
あぁ、女子社員よ。こいつの笑みをどうしてあっさりと爽やかなんて言葉で片付けられるのだ。
爽やかという言葉に対して失礼だ。
こんなにもクッキリと悪魔の黒い尻尾と翼が見えるというのに!
―まだ、サタン御降臨じゃないだけ、ましと思わなければならないのだけれども。
嫌な予感はするのに、打開できない。
なんだか目の前の男の唇がクツリと笑いながらもゆっくりと引き上げられていく様を、 見ていられなくて。
またも資料室での出来事を思い出した私は、本気でここからの逃亡を考えたのだけれども、 なにぶん片手は茅ヶ崎の掌に掴まれた状態で。
逃げ場所をなくして焦った私がいけなかったのか。
「悪いけど、私には君の言いたい意味がわからない」
馬鹿正直にそういったのがいけなかったのですか、神よ。



「要するに、羽丘さんに男として意識されるのは嬉しいけれど、俺から 逃げるのは許さないって事です」



答えとして返された彼の言葉に、腰が砕けそうになった。

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