トリッキーな君達へ 第三話(後編)


飽和状態の頭でも、正しい答えを探すのは簡単だった。
こういうときは綺麗にあっさりとスルーするのが賢いやり方だと。
そうだ、その答えはまったく間違ってないと、頭ではわかっているのに。
ない知恵絞って出された割には真っ当である意見でも、実行できなかったら本当に意味がない。
そんなことだって脳裏に駆け巡ったけれど、 悲しい事に私の神経は、自分が思ったほど予測不能なものに対してすばやく対応するほどできたものではなかったらしい。
私はといえば、スルーどころか思い切り動揺してしまった。


なに。
何を口走ったんだ、この男は…!


人の言葉をここまで体が受け付けなくなるのも思えば初めての経験だ。
ドラマの中で出てきそうなその言葉に、背筋が痒くなるよりも冷や汗が伝った。
声音は冗談という衣すら纏わずに。
奴の目は、どこまでもひたむきに私を捉えていた。
それだけは、自分がどれだけ罵っても消える事がないい事実で。
罵倒する前に、呆然として、それから悔しい事に赤面してしまったのだ。
逃げるのは許さないだなんて台詞、よくも簡単に口に出せる―!
に、逃げるに決まってるだろう!
だいたいそんな言葉は、一般人がさらりといっていいものではない、…はずだ!
そういう言葉すら、似合っているのも腹が立つ。
言い慣れているからだろうか?
そう思った瞬間に、胸底が靄がかったような気がした。
むかむかするし、どことなく気がそぞろになる。
自分の想像だとはいえ、どちらにとっても不愉快なことこの上ない筋書きだった。
あまりの事に私は硬直し、腰まで抜かして情けない様を晒してしまった。
それなのに目の前の茅ヶ崎といえば、何事もなかったように茶の準備を再開している。
特筆すべきところもないくらいの、完全なる自然体に、私は再度動揺してしまった。
一体この落差は何だろうか。
私は自力で立ち上がる事もできずに座り込んだまま、鈍い頭を動かしてみたが、ほとほと検討もつかない。
これでは、いちいち茅ヶ崎の会話一つでこんなにも挙動不審になる私のほうが、おかしい人みたいじゃないか!
それだけは、いくら私でも納得ができない。
…いや、みたいではなくて、本当に私の方がおかしいのだろうか…?
『羽丘さんに男として意識されるのは嬉しいけれど』
同時に思い出す、茅ヶ崎がのたまったフレーズ。
真っ当なはずの自分の意見に思わぬ疑いが生まれた事に、愕然とした。
それは思わずうめいた私の前方ですっと影がよぎったことにも気付かないほどの、晴天の霹靂とした衝撃だった。

だから本当に、気づいた時には手遅れで。
不自然に翳った視界の向こう、思わぬ距離の近さで話しかけられた時は、正直心臓が止まると思った。

「アッサム」
「うわっは!う、え?…は?」
「―アッサム、いける口ですか?」
唐突に間近からかけられた言葉に、思わず両肩が跳ね上がった。
やっぱり自分は突然の出来事に弱いらしい。
何も今私に再確認させなくてもいいだろうにと思いながらも慌てて声の相手を探して、そのまま固まった。
もちろん、声をかけてきたのは茅ヶ崎だ。
それに間違いはないのだけれども。
先ほどと同じ、含みのない笑顔を浮かべる茅ヶ崎に、またも心が大げさに揺れた。
もちろん、アッサムだって大好きだ。
確かにいける口とやらだが、ちょっと待て。
その笑みは反則だろう!?
それになんというか、さっきもやけに声が近くから聞こえるなとも思ったが、やっぱり顔が近すぎやしないだろうか―!?
圧迫を覚えない距離とはいったいどれくらいだったろうかと考えながらも、私は距離を置くための逃げ場所を視線で探るが、どうにも見当たらない。
いつの間にこんなにも壁際に追いやられていたのだろうかと嘆きながらも、それよりもちょっと身を寄せれば接触してしまいそうなほどの位置に奴のネクタイが見えることが気になった。
(これは、やっぱりおかしくないだろうか)
それともやっぱり、私がおかしいのか。
もうどれが正しいのかもわからないほどに、私はある種のパニックに陥っていた。
「羽丘さん?どうしたんですか?」
そんな経緯で、何も言えずにいる私に対して、何事もなかったかのように手を差し伸べて、茅ヶ崎は小首をかしげた。
視界に移る奴の笑顔は、限りなく胡散臭い。
見慣れた底意地の悪い悪魔の笑みに何故かほっとしつつも、私はさすがに頭にきた。
こいつ、絶対わかってて話を逸らしてる…!
なんという奴だ。
ついにクツクツと控えめながらも小さく笑い出した茅ヶ崎を、親の敵とばかりに睨み付けた。
人の態度を哂うその様ですら上品で、いちいちそれが癪に障った。
「茅ヶ崎!」
思わず敬称をすっとばしてしまったが、今はそんなことどうでもいい。
とにかくこのふつふつと湧き上がる怒りをぶつけなければ気がすまないとばかりに、私はじっとりと奴を睨みあげたのだったが。
場違いなほど爽やかな茅ヶ崎の笑顔と再びかちあってしまった。
な、なんなんだ、その笑みは―!?
思わず心で絶叫してしまうくらいの、とろけた笑顔が目の前に広がっていた。
あれか、そこまで私が狼狽する様を見たいというのか、この男は!
心の中でそう叫んでも、もちろん相手に伝わるわけもなく。
かといって、声を大にして叫べない。否、叫ばせてもらえるような、雰囲気ではなかった。
いつも女子社員ならず男子社員までをも従えさせてしまうその笑みが、私に無言で訴えかけている。
いつもよりも数倍迫力のある眩しさに耐え切れず、私は視線を逸らすという事すら忘れてただただ呆然と茅ヶ崎をみやるしかなかった。
あぁ、そんなことだから私はいつも奴の思うがままになってしまうんだろうな。
そう諦観する自分の横で、もう一人の自分が憤然といきまいた。
いや、だからこそ今日こそは抗うべきだろうが、それはもうきっぱりと!
そうだ、その通りだ。
とっさに拳を握り締めてその場をやり過ごし、どうにか勢いを保つことに成功した。
「なんとゆうことを!」
「あー、降参!降参です」
相変わらず笑ってる茅ヶ崎は、私の怒りを宥めるかのように軽くハンズアップしてみせた。
その様に、私はいちいち癪に障る男だと考える。
だってそうだろう?
おどけたその仕草すら似合ってるだなんて、世の皆様にも申し訳ないと思わないのか、おまえは!
そんな芸当は、それこそ映画の中の住民だけで結構なんだ。
決して目の前で、しかも私に見せるようなそうそうお手ごろなレベルの技ではないはずだ。
私は眉を寄せて、思い切り文句をいってやろうと口をあいたが、それは私へと不意に伸ばされた腕に見事に妨げられた。
「あぁもう。あなたって人は」

ふわりと暖かい温度が私を包んだと思ったら。
すぐ近く。
そう、私の耳元で笑いの滲んだ茅ヶ崎の声が聞こえた。


「なんでそんなに可愛いんですか」


「―っ!」
抱きしめられている。
理解した瞬間に、衝撃がはしった。
ありえない至近距離が、私の心をどうしようもなく浮き立たせた。
耳元から忍び込んだ楽しそうな奴の声と、私の大きすぎる体すらあっさりと抱きこむ両腕が、資料室でのぬくもりと衝撃を思い出させるには充分なほどのキーワードだったから。
体中の血が頭の頂きへと上っていくような感覚に支配された。
何も聞こえない、ただ茅ヶ崎のあまりにも優しい温度と、普段は到底拝むことのない純粋な笑みだけが、私の全ての時間かと錯覚までしてしまう始末で。
それがまやかしだと理解できたのは、その腕が数十秒後に名残惜しそうに離れてしばらくたってからだった。
「な、な、な…っ!」
思わず声を上げて飛び退るように壁際へと身を寄せた。
こいつはまた、わけのわからないことを…!
何を言い出すんだと硬直する私をよそに、茅ヶ崎ときたらやたら楽しそうにティーバックを取り出していた。
ふんふんと鼻歌まで聞こえてきそうなほどで、またどこかに燻った怒りが飛散されていくのを、私は多大なる戸惑いと微かな諦めを持ってその身で感じた。
いったい、どうしたらいいというのだろう。
濃いため息をついて、私はゆるゆると重い目蓋を持ち上げた。
ダメだ私、少し冷静になろうじゃないか。
どうにもこうにも振り回されている気がして、私は理不尽な思いをこめてこっそり茅ヶ崎を睨みつけた。
視線に恨みがましい思いしか練りこめないのが情けないが。
そんなことよりも、そんな小さな事で少しでも気が晴れている自分のほうが情けない。
自然と漏れるため息は、果てしなく重たかった。
「はい、どうぞ。パックは適当に加減見計らって外してください」
「―」
茅ヶ崎の手によって、ずいと暢気に差し出されたティーカップ。
時折昇る白い湯気は口に含んでちょうどよい温度に思えたし、視線に入ったティーパックのロゴは、自分が一番好んで使う会社のもの。
その中でも高級感がいいと評判の人気シリーズのそれで。
何より私は、食べる事や飲む事が本当に好きだから。
「…ありがとう」
考える事をわりとあっさり放棄して、私はありがたく茅ヶ崎が差し出したカップを受け取った。
「砂糖いります?」
「や、いらない。ストレートでいい」
律儀にシュガースティックを持ち出した茅ヶ崎に笑って断りをいれ、私はカップを口元まであげた。
ふわりと鼻腔をくすぐる紅茶の香りは、私を存分に楽しませてくれる。
思わず漏れた微笑を、止める術など知らなかった。
いそいそとカップを唇へと寄せて、そのまま少量を口へ含んだ。
媚びない甘さが、咥内へ広がっていく。
ここにお茶請けがあれば完璧なのに。
そうだな、しっとりとしたパウンドケーキなんていいんじゃないだろうか。
さくさくのクッキーだって悪くない。
あれやこれやと幸せな世界で妄想にふけりながら、私はうっとりと息をはいた。
やっぱり、休憩時間にこっそりと頂く紅茶はやめられない。
私にとっては、仕事上でのストレスを取り除くのに限りなく効果的だ。
入りすぎていた肩の力が抜けるというか、かりかりした事もふと何でもないことのように思えるというか。
とにかく少しだけ寛大になれる、私なりの魔法なのだ。
例に漏れずほんわかとした気分になった私は、すっかりリラックスした気分のまま顔を上げて、ようやくもう一人の存在を思い出した。
そうだ忘れてた、茅ヶ崎がいたんだ。
あまりのうっかりさに苦笑すれば、それが合図のように先ほどのやりとりが頭上を駆け巡った。
一瞬だけ、私の穏やかな感情の中に警戒という波が走る。
だけれども、と私は考え直した。
その出所はといえば、一杯目はともかく二杯目は茅ヶ崎だ。
理由はわからないが、まぁ意味不明な言動も、ついでに資料室での一件だって水に流してやろうじゃないか。
忘れてしまえ。
完全に平静を取り戻した今から思えば、『些細な事』と割り切る事も不可能ではなかった。
「茅ヶ崎君、ありがとう。このシリーズの茶葉がね、私ほんと好きなんだよ」
だから、ごくごく普通に、礼を述べたのだけれども。
「羽丘さん、本当に好きですよね、紅茶」
茅ヶ崎は、眦を下げてこちらをじっと見遣ってそう一言漏らしただけだった。
「珈琲より紅茶ですか」
「うん、紅茶の方が好き」
「お菓子と一緒に飲むタイプ?」
「そうそう、クッキーとかケーキとか!おいしいんだよ、これがまた」
「じゃあいきつけのカフェとかあるんですか?」
「そうだね。わりとどんなものでもいきつけはあるなぁ」
「へー、じゃあ色んなところ知ってそうですね」
残りの紅茶をチビチビと味わいながら、私は茅ヶ崎にリードされるがままに会話に参加した。
実際、茅ヶ崎の奴は相手から言葉を引き出すのが本当に上手だとおもう。
頭の端でそんなことを考えながらも、私は「そうだね」と答えていた。
上機嫌で、紅茶ばかりに集中していた私がいけなかったのかもしれない。
完全に気が緩んでいた私は、カップから口を離して、へらりと笑った。
「でも私、本質的に出不精だからね。お茶類は家でまったりするのが一番すき」
早めの朝食で、外をぶらつくのもたのしいけれど。
究極のインドア派の自分からしたら、やっぱり家の中が最大にして最高なオアシスだという事に違いは無い。
床に転がってラップトップを広げながら、マグカップになみなみと入れた紅茶を飲む。
私が一番理想とする休日の過ごし方だ。
「ふーん、そうですか。でも室内で一日をつぶすのももったいないし、せめて数時間くらいは外へでましょうよ」
「うーん、気が向いたらね」
「しょうがないですね」
茅ヶ崎は、なぜか苦く笑った顔でこちらを見た。
苦笑されるのはわかるが、やけに思案げに見えるのは気のせいだろうか。
不思議に思いつつも、私はほとんど飲み干したカップをシンクへ置こうと腕を伸ばした。
ブラウスの袖からちらりとのぞいた腕時計のベルトを見つけて、今が仕事の最中だったということを思い出して、私は全身に冷水をあびせかけられたような錯覚すら覚えた。
やばい・・・!今何時だ。
慌てて放したカップが多少にぎやかな音を立てたが、そんなことは構っていられない。
首をかしげる茅ヶ崎の存在すら無視して、私は腕時計を覗き込んで絶句した。
ゆうに15分くらい過ぎている。いくらなんでも、サボりすぎだった。
「ご、ごめん茅ヶ崎君!私先に―」
かえらなければ、と続けようとした時だった。
体はもう、茅ヶ崎の前をどうにかすりぬけて、足だって短いながらに大きく伸ばして、踏ん張っている。
そんな状況だっていうのに、どうしたことか、それ以上は進めなかった。
なんだろう、またいつものように右腕が重い。
こちらの自覚を促すかのように、やわやわと圧力を変える相手がこの上もなく憎らしかった。
「茅ヶ崎君?」
この腕は何かな?などと、もう白々しくて声に出すのも億劫だ。
見たくない思いを総動員で押さえ込んで、私は視線を後ろへとむける。
ボンレスハムのような太さの私の腕に、噛み付きたくなるくらいにしなやかな指が予想以上に食い込んでいた。
見上げたくも無い、おそらく今の奴の顔なんて毎度おなじみのあの裏のある笑顔だ。
わかっているのに、見上げてしまう自分が意味不明である。
人というものは怖いものへと自らちょっかいをだす習性とやらは本当だと、予想通りに悪魔な笑みを浮かべる相手を見て、私は心からそう思った。
「羽丘さん、ちょっとくらいは外へ出ましょうね?」
奴の笑みの意味がわからないが、言っている事はもっとわからない。
先ほどの話題にしては引っ張りすぎだし、だからといってここまでしつこく言う事でもないだろうが。
「散歩だって、たまにはいいものですよ」
私だって、散歩をする日だってある。だけどそれが、なんだというのか。
茅ヶ崎の念を押すような喋り方が、母親のそれとだぶって思わず顔をゆがめた。
小さいころからいつも母親は、成人病になってからは遅いのだと、私に言い聞かせる。
すでに耳だこでありながらも、目をそむけることもできないくらいに最もな事を心からの忠告でいうものだから、無碍にもできずいつも聞いている。
だから私は、このときもいつものように返してしまった。
「わかった、散歩ね。考えとくわ」
「絶対ですよ?約束です」
しつこい!
私は今、自分の体の健康よりも自分の会社の席のほうが大事なんだ!
目立たずこっそり生きていくつもりではじめた社会生活が今ただでさえ壊れているのだ。
自ら隙をみせるのは、あまり賢い考え方ではないというのに。
とりあえず、今のところは速やかにこの場を退散する事が大事だ。
そう結論付けた私は、ことさらにこやかに笑いながらも力いっぱい頷いてみせた。
「わかった、約束するわ!」
それが、後から思えば最大の失態であるとも気付かずに。



おかしいとは思ったのだ。
何故あんなにもあっさりと腕を放したか。
どうして奴はあそこまで、笑みをたたえていたのかとか。
だけど私は、彼の動向よりも机に残してきたままの仕事のほうが重大で。
過ちにも気付かずに、走り出してしまっていた。
「甘いですよ、羽丘さん。―そんなところも、可愛いのだけれどね」
残された茅ヶ崎のその言葉を聴きさえすれば、私だって全力で前言撤回しただろうに。



だって、しらなかった。
茅ヶ崎という悪魔が、どこにだって降臨できるということを。

「お茶しましょう、羽丘さん」
そんな言葉を皮切りに、ラフであるがセンスのいい出で立ちで微笑んで。
「もうちょっとしたら出かけましょうね?だって『約束』したでしょう?」
対してパジャマ代わりのTシャツにキョロットを履いた私の耳元でそう囁くものだから。
3日後の土曜の朝、私は玄関先で絶叫を上げるはめになってしまった。

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