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トリッキーな君達へ 閑話(午前編)
土曜日の午前8時半といえば、私にとっては早朝に値する。 平日は6時おきの7時出を繰り返すのだから、土日くらいはゆっくり惰眠を貪っても人様の迷惑にはならないと思うからだ。 しつこく何度も言ってやる。 そう、いつもならこの時間帯の私は自室のベッドで死んだように寝ていなければならないのだ。 なのに私は今、むっつりとした表情で化粧台の前で座っている。 服だってラフながらも外出ができる程度のものに着替えているのだから、髪がいささか雑然とくくってあることくらいは目を瞑ってほしいものだ。 通常の土曜日を考えれば、この格好にこの状態はありえない。 前人未到の非常事態といっても過言ではないくらだ。 ついでに言えば、この部屋が締め切られていることも非常事態ゆえだ。 リヴィングへと続く唯一の扉の向こうにいるであろう存在のことを考えるだけで頭が痛い。 ゆっくりと塗り終わった口紅を元の場所に戻して、名残惜しげにベッドを眺めた。 そこには慌てて脱ぎ捨てられた寝巻き代わりのTシャツ達。 ゆっくりと拾い上げてハンガーにかけるのと、扉の向こうの声が聞こえたのは同時だった。 「羽丘さん」 「あー、はいはい!今行く」 まってろ、ちゃんと出てくから。 だから絶対その扉は開けるなよ! 心からの叫びをあげながら、私は力いっぱいため息をつく。 なんで私がこんなはめに… 最大の謎である事実を心のそこからうらみつつ、私は扉を勢いよくひらいて部屋からみを出し、そのままのスピードをもってして後ろ手で扉を閉めた。 「そんなに慌てなくてもいいのに」 なにがおもしろいのか、はた迷惑な来訪者はクツクツと喉を鳴らせて笑う。 私が発する視線だけの抗議を受け取って、初めて奴は苦笑を一つもらしたのだ。 「俺だって礼儀くらいは知ってますから」 朝もはよから家に押しかけておいて、今更そんな台詞を信用できるわけがないだろう。 だいたい私も私だ、どうしてあの時こいつを部屋にあげてしまったんだ。 会社でのみ顔をあわせるだけの関係の茅ヶ崎が、人ん家のソファでくつろいでる。 なんでこんなことになってしまった。 朝のニュースを見遣りながらMCの会話で笑っている茅ヶ崎に、頭痛を覚えた。 「おはようございます」 扉を開ければ、異世界ならぬ悪魔の笑顔。 寝ぼけ眼の私も驚いて顔を上げた。 なんで、とかどうしてとかもいえぬほどに予期せぬ展開に、私は情けない事に固まってしまっていた。 扉を閉めるという行動すら忘れるほどの、それはそれは大きな衝撃だったのだ。 そんな私に茅ヶ崎は、笑顔でこうのたまった。 「お茶しましょう、羽丘さん」 挙句の果てには、笑顔で一言。 「だって約束したでしょう?」 今から思い出せば朝っぱらの隙だらけの私を茅ヶ崎が言いように転がして、私はまたあいつの思うがままに動いてしまったのだ。 それが間違いなく、茅ヶ崎が今こうして私の家でくつろいでいる理由である。 (だって、家を奇襲だなんて卑怯だろう!) 隙だらけでもしょうがないだろう。家というものは、気を抜ける大切な空間なのだから! 誰が朝がた玄関扉の前に立っているのが、会社の後輩だと思うだろうか。 せいぜい新聞か配達くらいと思った私がいけないのか。 のぞき穴すら見ずに扉を開けた私とて悪いが、朝方に先輩の家の前で待ち伏せしている奴のほうがよっぽど性質が悪いと思う。 ちょっと危ない奴と間違われても、正直茅ヶ崎に弁論の余地はないだろう。 「茅ヶ崎君。これは間違いなくプライベートの侵害だと思うが?」 思いきり刺々しく、嫌味たっぷりに言ってみた。 だけど茅ヶ崎は何も言わない。 静かにソファの上に座って何かを覗き込んでいて。 何を見ているのだろうと近づけば、茅ヶ崎はいたって普通に人の本を読み耽っていた。 (あ、頭が痛い…) 暖簾に腕押し、糠に釘付けとはまさにこのことか。 現実逃避とばかりに台所へと移動して、私は恨めしげに冷蔵庫を見た。 そこにはお茶請けにどうぞと渡されたケーキの箱が納まっている。 あれさえ無ければ、すぐにでも追い出すのに。もらってしまった手前、そんな非常識な事はできなかった。 そこでケーキを返すという選択を無意識に消している時点で私もとんだ食いしん坊だ。 結局、非は奴ばかりにはないということなのだろう。 ため息をついてコップに汲んだ水を一気に飲み干した。 そのままふと見下ろした先にあるぽってりとせり出した我がお腹が、常より少しだけ膨らみがたりない。 そういえばまだ朝ごはんもまだだった。 空腹を満たせと主張するように、ぐうと大きな音がなる。 何か食べるものはないかと冷蔵庫を開けようとして、はたと早朝の来訪者のことを思った。 (そういや茅ヶ崎、朝ごはんどうしただろう) 二人分作ったほうがいいのだろうか。 そう考えてから、私ははっと我にかえった。 何故私が奴の朝食まで心配しているのだろうと、唐突に思いなおしたのだ。 いいや、放っておけばいい。 呪文のように口の中でそう呟いて、私は冷蔵庫の中を覗き込む。 気合と共に卵をふたつほど引っつかみ、いそいそと台所へたった。 朝からこんな目にあってるんだ、どうせなら普段しないことをしてやろうじゃないか。 そんなことを考える辺り、私もやけっぱちなのかそれともただ食い気が勝ったのか。 普段は簡単なトースト程度しかしないくせに、珍しくも朝ごはんに少しばかりの手間をかけようとしている。 卵はスクランブルエッグにしようと決めていた。 あれほど憂さ晴らしにちょうどいい料理はないだろう。 ご多分にももれず不要なほど力を入れて卵を溶いてやれば、すっと心が軽くなる。 鼻歌まで歌えそうなほどの気分になったとき、熱したフライパンに入れてかき回した。 菜箸をさっと通すたびに微かにあがるじゅっと焼ける音がたまらなく食欲をそそって、私はとうとう小さく歌いだしていた。 気分は上々どころか最高潮。 ルンルンと調子をつけて歌いながら、私は同時に焼きだしたウィンナーをころころと転がす。 焼き目がついてなんとも美味しそうだった。 (そうだ、昨日食べ残したサラダがあった。あれも添えたらちょうどいいや) サラダにスクランブルエッグにウィンナー。 私にとっては珍しくも豪勢な朝食だった。 完璧だとまで嘯いて、集中して卵を炒っていたのがいけなかったのか。 背後にいつの間にやら天敵が潜んでいただなんて、まったく気付けていなかった。 「うまそうですね」 ほどよい低さのその声に、私は思わず肩を震わせた。 視線だけ横にやれば、いつのまにやらちゃっかりとそこにいる青年茅ヶ崎。 この間から奴にはこんな類のことばかりで驚かされている気がして、忘れかけていた疲労感がじわりと肩にまとわりついた。 私だって鈍すぎるというわけでもない、と思う。 だというのに、どうにもこの男の気配だけは読めずにいる。 (気配消せるって、忍者かおまえは) 口に出さずに心でぼそりと呟いて、私は茅ヶ崎に対し勤めて冷静な態度を装った。 「朝食は食べた?」 「軽くなら」 微妙な返事だ、と聞きながら思う。 はいと言われたらそうですかですむが、そんな言い回しをされると私としては「食べる?」と聞いてしまいたくなる。 (迷惑かけられてるんだがなぁ) どうしてここまで相手に気をつかわねばならないんだ、相手は一向に遠慮しやしないのに。 あぁこういうところもダメなのだろうかと思いながらも、私は無意識に自分と奴の取り分の比を考えていた。 「あー、そういう見解もありなのかぁ。考えだにしなかった」 「ありだと思いますけど。俺はそれ以外頭に浮かんでこなかったし。っていうか、羽丘さんの見解の方が斬新ですよ。俺そんなこと言う人初めて見るし」 「うそぉ」 「嘘じゃないです」 ダイニングテーブルで向かい合って、二人で食べる朝ごはん。 以外にも緊張のきの字もしなかった。 「だってさ、あの唐突な文の終わりはつまり裏を読めってことじゃないかい?」 ウィンナーをぐさりとフォークで一突きしながら私がそういえば、茅ヶ崎はレタスを咀嚼しながら困ったように笑う。 「俺はそこよりも、なんであそこでうまい具合に主人公が駆けつけられるのかって方なんですけどね」 茅ヶ崎のどうにも解せないという顔を見ながら、私は盛大に笑う。 潤滑油よりも滑らかに、かつてないほど友好的に話は進んでいた。 なんとも奇妙な光景だと思いつつも、絶対に他の社員に知られるわけにはいかないなと思う。 彼らに茅ヶ崎の我が家訪問の旨を話すということは、食いつきのよいピラニア集団の真ん中に特大の肉を放り投げる事と同意語だといっても差し支えないはずだ。 憂鬱になりながらも、何故かこいつのせいだとはいえない。 いつもと同じように会話をさりげなくつなげてくれるから、むしろ楽しい食卓になってしまったことに大いなる困惑を抱いた。 今も茅ヶ崎と話題の本について色々と話していて、気がついたら皿の中身はものの見事に無くなっていた。 「―…」 ちょっと待て、これはどういうことだ。私は呆然と役目を終えた丸皿を凝視した。 食べる事が大好きなこの私が。 いつ食べ終わったかわからないくらい、茅ヶ崎との話に集中してしまっていたという何よりの証拠だった (ちょっと、これは―) やばいかもしれない。 ミルクを飲み干す茅ヶ崎をチラリと見遣り、私はそっとため息をつく。 (友達としてなら、大歓迎なんだけど) 私は食事が大好きだ。 正しく言えば、楽しく食事をするのがすきなのだ。 美味しいものは大好きだけど、たわいもない会話で彩られたらなお更最高だと思っている。 だから実を言えば、一人でご飯を食べるのはあまり好きではなかった。 それがたとえ、おいしくて大好きなものでも。 だからこそ、今の状況にあせる。 茅ヶ崎との食事のとり方は、まさに私好みだ。 気を使って喋りすぎるわけでもなく。落ちる沈黙すらも穏やかで。 茶のみ友達としてなら完璧だと思うのだけど、こいつの場合それだけでは終わってくれないから難しい。 (愛だのなんだの言わなかったらいいのに) そんなことをいいさえしなければ、私だってここまでつんつんと他人行儀にはならないというのに。 なんとも惜しい物件だと一人胸中でごねてしまう。 「羽丘さん?」 どうされましたかと声をかけられ、慌てて視線を元に戻した。 不思議そうに茅ヶ崎がこちらを見遣っていて、まともに視線が絡まって一人で焦る。 人間は焦るもんじゃない。つくづく思うが今回もまさにそれで、私は心うちを騒がせる雑音を消すがごとくの勢いで、愛想笑いを浮かべてみせた。 「い、いや。その、もらったお菓子いつ食べようかなって。茅ヶ崎君はいつ食べたい?」 ごまかすように話すうちに、気付いてしまった。 私、いつの間にか茅ヶ崎に対してわりと砕けた調子で話しかけてないか? 常の友達に対して使う素の言葉に限りなく近いそれを、何の違和感もなく。 そのことがまた、更なる混乱をよんだ。 「う、や、だからさ。−あ、そういや茅ヶ崎君、今日は何の用事だったんだ?」 用事があったからきたんだろう?と聞いてみる。 あぁ、我ながらなんという白々しい話の変えようだ。 何気にへこんでしまいそうだ。 そんな私をみてどう思ったのかは知らないが、茅ヶ崎は半ばあっけに取られた様子で私の顔を凝視しているようだった。 見られるのが気まずくて、私は思い切りよくそっぽを向く。 自分に腹が立つ。茅ヶ崎までとはいかないが、私ももっと話術を身に着けたいと心から思った。 「−ック…ッ」 本当にどうにかならないだろうか、私のこのちょっとしたことでパニックになる性格。 いつでもクールにこなしたい。私のとものように。 「クッ…ハ!アハハハハハ!!」 突然の笑い声に、私は驚いて真正面へと顔を戻した。 そうして絶句する。 あの茅ヶ崎が。 微笑だけで全てを動かすあの男が、盛大に笑っているのだ。 爽やかでいて子供っぽい仕草で笑っている相手を前に、今度は私が呆気にとられる番だった。 は、はじめてみた。こいつも声出して笑うんだ。 クツクツと喉を鳴らして笑う様を見た事は、それこそ数え切れない。 音の無い微笑みなら数多く。 だけど今のてらいなく声を上げて笑う茅ヶ崎を見たのは初めてだ。 似非爽やかでもブラックでもサタンでもないその笑みが、一番年相応ですっきりとしてみえた。 「ハッ、あー、おもしろ」 「何が?」 「だって羽丘さん、自分で墓穴掘って自分で落ち込んでって。ほんともう見てて飽きない。ご友人にもそう言われません」 「―まさか」 憮然として言いながらも、内心は冷や汗ものだ。 まさにその通り。 すぐにうろたえ軽く一人でパニックに陥り、後々スマートな対処法を思いついて更に凹む。 それが私の行動パターンで。 端から見ていたら面白いと、仲の良さが増すにつれ必ず友人は口をそろえてそう言うのだ。 はっきり言って私はまったく面白くない。 むっすりとして立ち上がって片付けを始めれば、茅ヶ崎は律儀にもご馳走様でしたと頭をさげて笑った。 その笑顔も、会社では見た事がない屈託のない笑顔。 そういやこいつは自分よりいくつか年下だったと、思い出させるような。 (ずっとそうやって笑ってたらいいのに) 立ち尽くしたまままじまじと彼の笑顔を眺めていたら、奴はきょとんとした顔でこちらを見上げてくる。 何かおかしなところでもと問いかけているようなその仕草がまた、普段の茅ヶ崎らしくなくて可愛かった。 なんだ全然怖くないじゃないか。 朝食の間でたて続きに見た彼の笑みや態度が、私の警戒心をのきなみそぎとってしまっていた。 ようするに私は、奴がサタンを降臨させる青年と同一人物ということを、すっかり忘れていたのだ。 だからこそ、ポロリとでてきた言葉だった。 「なんか、弟がいたらこんな感じかね」 笑ってそう言ってから。 すっと奴の顔から笑みが消えたのを見て、またいらぬ穴を掘ってしまった事に気がついた。 「ち、茅ヶ崎君。食後の珈琲いるかい?紅茶とどっちがいい?」 慌てて必死に取り繕う私を見て、少しだけでも気をよくしてくれたのだろうか。 茅ヶ崎はニッコリ笑って立ちあがった。 「じゃあ珈琲貰えますか?紅茶は10時に一緒に飲みたいんで」 「あ、そう?じゃあ私も今は珈琲にしよ」 よかった、なんとかなりそうだ。 ほっとした私を、神様あなたは修行が足りぬとおっしゃるのだろうか。 皿を片付けようと、茅ヶ崎のそれにも手を伸ばした時だった。 グイと突然引っ張られて、大きく前のめりになって。 「―ん…っ!?」 あっと思ったときには、奴との距離はゼロどころかマイナスで。 暴れようにも間にある机と伸ばされた腕によって、思うように動けない。 キスの段階なんて、小説の中での擬似的なものかままごと程度の自分の経験だけしか知らない。 だけど、この前よりも長くて、あの時よりも押し付けられた唇の感触が生なましく思えて、自覚したとたんにぞくりと腰のあたりが粟だって力が抜けてしまいそうになった。 「…は…」 ゆったりと焦らすように離れていった茅ヶ崎の唇が妙に艶めいていて、罵声を浴びせる力すらも吸い取ってしまう。 「―弟とは、こんなことできませんよ?」 「――ッッ!」 意地悪く耳元でいうなんて卑怯だ。 だけど真っ赤になったこの体ではうまく言い返すことなんてできなくて。 前言撤回だ、こんな弟がいたら危険過ぎる! 大げさに肩を揺らして息を整えながらサタンが潜むあの笑みを精一杯睨み付ける事が、情けない事に私の精一杯だった。
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