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トリッキーな君達へ 第三話(前編)
疲れた体に一杯のお茶。 お茶請けでクッキーもあったらなお良しで。 「あー…」 誰もいない手狭な給湯室の壁にもたれて、私は思い切り肩の力を抜いていた。 「癒される…」 行儀悪く立ちながらで、限定一名によるそれが、事実茶会というにはむなしすぎることなど 先刻承知だが、それでもあえて私は茶会と呼びたい。 それほどまでに、私はこの時間を心のよりどころとしているのだから。 持参したクッキーをポケットから出して口にほおばれば、かすかな甘さが体を優しくいたわってくれる 。 給湯室で一人、仕事の合間に何をやってるんだと たまに我に帰るときもあるけれど、必要だと思ってやっていることだから特別後ろめたいとは 思わない。 それに、誰にも見咎められない絶対的な自信が、私にはあった。 ここは自分の席があるフロアから数階離れた場所で、もはや誰にも忘れ去られた場所といっても 過言じゃない。 少し埃っぽいのが玉に傷だが、それだけ誰も寄り付いていないという証拠。 思う存分力を抜いてくつろげるというものだ。 ほんの10分にも満たない逃避行だが、私はそれで充分だった。 周囲はどうやら私が喫煙しに外へ出ていると思っているみたいだが、 わざわざ否定する気もなかったからそのまま上手にその言葉を立て札に使ってしまっている。 入社直後から続いているこの茶会は、私の日課といっても過言ではない。 気持ちよく立ち上る湯気を眺めて、私は微笑みながらカップに口付けた。 咥内を満たす琥珀の液体は、お気に入りのオレンジペコー。 すっかり上機嫌になりながら、私は残りの仕事の算段を頭の中で繰り広げる。 どれもこれもそこまで難しく厄介なものではないから、がんばらずとも定時に帰ることが出来そうだ 。 そういえば仕事場で見たところ、奴はかなり忙しそうだった気がする。 あの調子では、定時にあがるだなんて不可能に違いないだろう。 「―…」 いつもなら。いや違う、数日前までならばにんまりと口の端をあげて喜べたというのに。 にんまりどころかへの字に曲げた唇で、ため息をつく。 嬉しい事も確かだが、今は嬉しいよりも前に安堵してしまう自分がいる。 数日前、正確に言えば三日前に起こった資料室での 出来事は、どうやら自分が思うよりも深く大きな爪痕を残しているようだった。 茶渋が浮いたコップの底を眺めて、私はしかめっ面をあらわにした。 相手はどうせ本気じゃないからとあしらえば、世にも恐ろしい目にあった。 壁際に追いやられるということは、ああにも強迫観念を見出すものなのかと いらぬ経験談すらできてしまったというのに。 "自業自得よ。私は忠告したんだから" 呆れを通り越したあっさりとした友の声が、ガンガンと頭の中で響く。 臨死体験をしたとばかりの勢いでチャットで話しかけても彼女はそこまでのってはこず。 一人興奮の収まらぬ私は、とうとう彼女の携帯に電話して長々と話を聞いてもらうこととなった。 "どう聞いても彼、からかいじゃなくて本気じゃないの" あれだけ言ったのに、留意しなかったのは誰?と暗に責められた私はぐうの音もでず、 ただ縮こまる結果となった。 "いい?ミチル。軽くなんとかなるなんて思ってたらいけないことぐらい、あなたもそのとき分かった でしょ" 分かったでしょといわれても…私にどうしろというんだ。 のろのろと蛇口をひねりながら、私は唸った。 やや強めの水圧もものともせずに、私はただうんうんと数日前を省みる。 そういやあいつは、許可なしに人に二度も口付けおった。 要らぬ情報と過去に葬りたいというのに、そう簡単に忘れるほど些細な出来事と割り切れなかった。 なれた仕草で近づいた彼の顔を 思い出しただけで、泡まみれになた指先が小刻みに怒りで震える。 自分にも隙というものがあったからこそ許してしまったであろう侵入だから、そこまでとやかく 責められやしないが、何に怒りを覚えるかと言えば他ならぬ自分自身にである。 思い出してしまうのだ。 ふとしたひょうし、ことある毎に奴の唇の感触が鮮やかによみがえる。 唇よりも先に額に感じた彼の前髪の柔らかさや、 触れた唇の意外なほど柔らかい暖かさ。 そんなものは、とっとと消去せねばならぬ記憶のはずなのに。 まやかしといいきかせばきかすほど、リアルによみがえるあの出来事と、 つられるように頬を赤くする自分がなによりも嫌だった。 だから今日も、奴の視線に入らぬよう、こそこそと隠れている。 情けない行為とわかっているが、茅ヶ崎の顔を見るたび資料室での一連の出来事が走馬灯のように 蘇るのだ。 更に仕事場というのが性質が悪い。 仕事中に何度資料室へ足を運べばいいと思っているのだ。ただでさえその度顔がゆだるほどに思い 出してしまうというのに、奴の顔を見ればどうなるかだなんてわからない。 予想できることは、おそらく仕事などまともにできる状況ではなくなるということくらいか。 好きで入った仕事だから、入社時の情熱ほどではないにせよ、自分なりに やりがいを見つけて楽しんでやっていきたい。 別に自分は所謂エリートというわけでもない、変哲の無い一社員だが、それでも一社員なりの 仕事に関するプライドというものがある。 職場で起こったこととはいえ、茅ヶ崎の件はプライベートの問題なのだ。 仕事にまで感情を持ち込みたくないし、乱されたくもなかった。 「―なんだかなぁ」 誰もいないことをいいことに、私は思いを口に出した。 心で整理するには、あまりにも渦巻きすぎる感情。体の中ではもう収まりきらなくなっている。 だいたい茅ヶ崎も悪いんだ。 奴が、毎回毎回しつこいぞというくらいに人を誘ってくるものだから。きっとそれで流されて しまうのだろう。 おいでませといわんばかりの神々しいブラックな微笑みを交わすほどの 図太い精神を、あいにくと私は持ち合わせていない。 資料室にて初光臨を果たした あのブラックを通り越したサタンの横暴を知っているからこそ、恐ろしくて派手な抵抗が できないんだ。…きっと。おそらく、多分。 なんにせよ断りきれない私も悪いのだ。茅ヶ崎一人が悪いわけじゃない。 「ややこしいことはごめんだというのに…」 相変わらず私のふっとい背中には総務や他課の女性達の無遠慮な視線が突き刺さる突き刺さる。 わざとしているのかそれとも聞こえていないつもりなのか、言葉の礫まで飛んでくる 始末だ。 これも正直理不尽だと思う。 彼女らいわく、私が茅ヶ崎にアタックしたらしい。奴にモーションをかけただぁ? 自慢にもならないが、私は身の程というものを知っているつもりだった。 だいたい君たちの目は節穴か? すっかり冷たくなった指先で栓を締めなおしつつ、私は大仰なため息をついた。 つかずにおれるか、どこをどうみたら私があいつを口説いているようにみえるんだ。 綺麗になったカップを所定の位置に戻しつつ、これみよがしにため息をついた。 反論しようが何をしようが、ああいった輩は全て聞き入れはしないのだ。 だいたいそんなに茅ヶ崎が好きなら、あいつにかければいいだろ、"モーション"とやらを。 私は一向に構わないのだから。 私のため息と愚痴は止まることを知らない。 気鬱になりつつも、収まりきらぬ愚痴は、じょじょに日ごろの恨みへと変わっていく。 ありえないぞ茅ヶ崎君。 君のおかげで目立たぬ穏便な社会生活の雲行きが少しずつおかしくなってきているのは気のせいじゃ ないだろう。 体型で目立ってただけだって言うのに、今では要らぬ説明と好奇の視線と侮蔑にと目立ちまくりの レッテル貼られたも同然である。 だけど話題の中心に上るのは私だけじゃない。私たちはセットじゃないと怒りたいくらいに、常に奴の 噂が傍を寄り添う。 私ですらも上から何かいわれやしないかと時折ひやりとすることもあるというのに、 、実行している張本人は常にその余裕を崩しやしないのだ。 常識を逸していると思うほど堂々と、私を誘いにやってくる。 ―茅ヶ崎よ、あなたは何様なんですか。 いつものあの胡散臭そうな笑みの下に潜んでいるのは、きっとサタンだけではないはずだ。 一体どんな魔物が飛び出してくるのかと、こちらとしては気が気じゃない。 「何様サタン様め」 ポツリとつぶやいてから、思わず笑ってしまった。 誰のことかなど、いわずもがなというものだろう。 白と見せかけて闇よりも黒いあいつのことだ。 我ながらいい名称だと久々に唇は機嫌よい笑みをかたどった。 はず、だったのに。 「何様サタン様ねぇ。それって誰のことですか?」 情けないことに、口から心臓が出るかと思った。 「……っ!?」 振り向きたくない。殊更一つしかない入り口のほうへ視界を向けたくないと思った。 何故なら割り込んだあの声は、いやというほど聞き覚えのあるそれだからだ。 場所からいって、そこに誰がいるかなんて涙がでるくらいに明瞭だ。 見なくたってわかる。 どうせ 華奢な体を壁に預けて嫌味なくらいにすらりと伸びた両脚を交差させていることだろう。 冷や汗をだらだらとかきながらも、私は思わず一歩あとじさった。 それから、気付く。 こんな狭いところで後ろにさがるなんて、追い詰められたも同然じゃないか! やばい、かもしれない。 私のなけなしの危機察知能力がいっている。 すみやかに奴と距離をとれと。 とりあえず、この場を去るには奴の前を通らないといけない。 だけどさすがに今の状態で奴という関所を突破するのははっきりいって不可能だろう。 「ち、がさき君」 機会をうかがうように、私は奴の名前を呼んだ。多少ひきつった声でもこれぐらいはご愛嬌で通らせて いただきたい。 それくらい、私にだって請う権利はあるはずなのである。 「えっと、とりあえずなんでここに?」 「おそらくここだろうなと思って、追いかけてきました」 "おそらく"? "追いかけてきた"?? あれか、私の行動パターンはそんなにも社員に筒抜けだというのか。 入社して数年、ささやかな楽しみだったそれに、思わぬ影がさした。 「あぁ、ご心配なく。ここ知ってるの、俺ぐらいですから」 スタスタと苦笑しながら近づいてきて、茅ヶ崎は手を伸ばしてカップをとった。 先ほど私が洗ったばかりのそれを横において、手早くやかんをコンロの上におく。 いやに手馴れた一連の動作に、私は逃げる事も忘れて思わず声を上げていた。 「へー、お茶の淹れ方知ってるんだ」 えらいえらいとしきりに感心して言えば、茅ヶ崎ときたら何故かがっくりと肩を落とした。 私はなにかおかしなことを言っただろうか。 苦笑の滲む奴の顔を見返せば、やんわりと笑われた。 「―あのね、成人過ぎた男なら茶ぐらい沸かせますよ」 「私は沸かせなかったわね」 大真面目に言い返してやる。驚いた顔をする茅ヶ崎がおかしくて、私は笑った。 「親の家事を、あまり手伝わなかったから。大学の 寮に入るまでは料理の段取りもしたことは無かったし、 お茶すら沸かした事がなかった」 掃除や洗濯の類は家でもやっていたから何の問題もなかったが、こと食に関しては経験値ははてしなく ゼロに近かった。 不器用な私が包丁を握れば、それだけで母達は止めに入り触らせてくれなかったというのもある。 だからこそ、苦労したのだけれども。 「寮は食事つきだけれど、日曜の夜だけは出ないわけよ。 だから四苦八苦して作っては友達に 笑われてた。精進しろって」 目蓋を閉じれば鮮明に思い出す、懐かしいあの頃。 夜中まで篭ってしゃべり明かす部屋は大概私の部屋だったな。 各々が作った料理を食べながら、笑い、時には喧嘩しながら時を過ごした。 懐かしい、皆元気か―って、何を今。よりにもよって茅ヶ崎の前で懐古に浸っているのだろう。 慌てて気を引き締めて、私はすっと息を吸い込んで茅ヶ崎をみた。 「成人のあたりは、の話だけどね。男の人なんてもっと家事しないんだろうと思ってたから 驚いたの。ただそれだけ」 早口で話をしめて、私はふいと視線を茅ヶ崎から外す。 近頃常より頻繁と友と電話をするからだろうか。大学の自分に出会った彼女だから、 なお更学生生活を思い出すのは造作もない。 だけど何も、茅ヶ崎相手に自ら吐露することでもなかったろうに。 会社の人間に過去の事をあまり語った事が無く、自分でも意図的に避けていたはずであるのに、 よりにもよって奴の前でそれすら忘れて語ってしまった事が恥ずかしくも気まずくもあった。 「―」 「と、にかく。私はそろそろ職場に戻るから。君もお茶で一服すんだら早く戻りなよ?」 奴の口を動かす気配を知って、私はそ知らぬふりをして遮った。 それから今がチャンスとばかりにそそくさと入り口へと近づく。 そうだよ、今がチャンスじゃないか!茅ヶ崎はお茶焚いてるわけだし、ここからしばらく離れないしね 。 あぁ、なんて賢いんだ私の無意識センサーは。 だなんて浮かれたのがわるかったのですか、神様。 ―いつのまにか、手首をつかまれておりました。 いつものように。 「湯が沸くまで暇じゃないですか」 だから 「一緒にいてくださいますよね?」 「―っ!!!」 いらっしゃったよ、悪魔の微笑み。 わかっていたのに、NOといえない私は日本人だからかそれともただの 小心者だからだろうか。 言葉につまりつつも無言の圧力に耐え切れず首が千切れるほど縦に振れば茅ヶ崎がたまりかねたように 笑った。 「お話しましょう?羽丘さんのお話聞かせてもらったし―俺も、話したい事があるんですよ」 意味ありげに付け加えられた言葉こそが、彼の本件なのだろうと。 わかるくらいの真剣な響きをそなえた奴の科白が、二人しかない給湯室に響いて消えた。
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