真面目に生きてて何が悪い!


「微熱だな」
さらりと告げられた言葉に、唯は思わず押し黙る。そんな彼女の様子を見て、対面に座る 保険医はふうとため息をついた。角刈りに近い刈上げに体格のよさは一見体育教師 の風体だが、彼こそが正真正銘の唯の高校の学校保険医である。名を上岡という。
上岡は体温計の先端を軽く消毒しながら、チラリと唯を見る。大分気心が知れてきている相手だが、 いかんせん強面の上岡にそうされるととたんに居心地が悪くなった。
「おまえ、ちゃんと寝てるのか」
すごむようにいわれて、唯は慌てて首を縦にふった。
「寝てます。寝れる範囲で」
「じゃあ知恵熱か、赤ん坊だな」
あっさりとそういう顔はもう半分お説教モードに入っていて、唯は保健室から逃げ出そうとする心を かろうじて押さえ込む。
上岡は確かにきついが、彼のいう事のほとんどは後にためになる。少なくとも唯にとってはそうだった 。
身構えつつも上岡を見据えれば、相手はもう完全に唯をターゲットにいれていた。
「いつも言ってることだがな、薙沢。おまえははなから全部抱え込みすぎなんだ」
初めて保健室に寄った時も、委員の仕事で疲れ果てた時だった。放課後の保健室は誰もおらず、 疲労からの頭痛発熱と診断されあげく理由をきかれた時に、胸のうちに溜まっていた不満をすべて ぶちまけた。
何を言ったかだなんて全く覚えていないけれども、おそらくは昨日まで考えていた事と同じ事のように 思う。黙って唯の愚痴に耳を傾けてくれた上岡に感謝しようとした矢先に、おもむろに言われたのだ。
『そんなもん、できなくてあたりまえだろうが。おまえは完璧なんかじゃないんだから』
怒ったようなその響きに、唯は完全に呆気にとられたのを覚えている。
それ以来上岡は、唯が訪れるたびになにかしら助言をくれる。唯にとって上岡は、担任よりも 信頼できる相手とまでなっている。勿論本人にそんな事はいわないが。
「あ、の。そのことなんですけど」
「なんだ」
「私、クラス委員やめました」
恐る恐るそういえば、上岡は数拍の沈黙の後そうかとだけ呟いた。
事の詳細も何も聞いてこないのはいつものことなので、唯は勝手に話し続ける。上岡は口を噤んで ただじっと唯を見ていた。
「昨日のホームルームで。その場の勢いでこの役降りるって宣言したんです」
「―それなのにまだ発熱と頭痛が治まらないのか」
ため息と共に吐かれたその言葉に、実は吐き気もするんですとは言えずに唯は曖昧に頷く。 が、相手もさすがに唯の性格をわかってきていて、促すように他の症状を全てはかされる はめになった。
「おまえも難儀な奴だな。やめたのならもうおまえとは関係の無いところの話だ。グダグダ悩まず ともいいだろう」
「それは―」
確かに、その通りなのだけれど。もごもごと口の中で反芻するとそれすれも見越した上岡が盛大な ため息をついた。
「おい薙沢」
鋭く静かな呼びかけに、首をすくめるもそんな事で許してくれる相手ではない。 朝一の誰もいない保健室で、上岡の声が響いた。
「クラス委員なんてのは、お前にとっちゃ大きい問題だろうがな。他の奴にはそうでもない」
「わかってますよ、それも」
渋々それに同意する形になって、あまりの大人気なさに唯は歯噛みした。
(違う、そういう事じゃなくて)
「いい言葉使えば責任感がありすぎるってことだろうが。だからこそ途中で丸投げしてるってとこが ネックになってるんだろ」
「―毎度毎度、腹立つくらいあてますね」
図星を指されてひがむ唯に対し上岡はかわらずの表情で、保健室利用書を手元に引き寄せた。
「まあな。お前の思考パターンなんぞとうの昔につかんどるわ。…ほら、とりあえず一時間目 が終わるまで寝とけ」
しっしとまるで犬でもあしらうかのような手の振り方に唯は苦笑して立ち上がった。
保健医が指し示した一番奥のベッドにもぐれば、いつの間にか後ろにいた上岡が無表情のまま間仕切り カーテンを掴んで唯を見下ろす。いまだ責められているような気持ちになった唯とは対照的に、 上岡はとかくぞんざいな調子で口を開いた。
「起きたら声かけろ。そのまま熱も上がるようなら今日は帰れ」
「はい」
唯のか細い肯定を打ち消すくらいの粗雑な音で間仕切りのカーテンが保健ベッドを潜る。
微かに聞こえる上岡の靴音が遠のいていくのを聞きながら、唯は自嘲のため息をついた。
(ほんと、どこまでいっても私ってだめよね)
上岡の言葉はおおむね正しい。丸投げなんて言葉は唯の語彙のなかには無かったが、まさにそれ だといわんばかりに相応しい言葉である。自分は疲れや怒りに任せて、全てを放り投げてしまった だけだ。理屈を捏ね回すぶん子供の癇癪よりも性質が悪いかもしれない。
自虐的な思いを上乗せするように、先ほどの三津谷との会話が唯の気持ちをさらなる奈落へと 落としていく。
八つ当たりのうえに、毒まで吐いてしまった。上岡に彼との会話を話したら、なんというだろうか。 呆れるだろうか、一笑に付すだろうか。どちらにせよきっと何かしら訓示めいたものを言われたに 違いない。
三津谷に謝らないといけない。彼の今までの所業とは別に、今日の八つ当たりだけ。
(あぁ、だけど、でも)
大人気ないといわれようが、気が引ける。どうしても唯は三津谷を肯定的に見ることができないで いた。
少なくともうだうだと言い訳を考えて、彼から逃げようと思うほどには。
情けない事だが、彼を見ていると数々の委員での出来事が走馬灯のように押し寄せてくる。
ただでさえこの学校のクラス委員は他校のそれよりもハードだというのに。などとやっぱり 恨みがましい思いが沸きあがってきてしまうから。
(もういい)
とりあえず寝よう。上岡が言うとおり、微かながら熱も上がっているようだった。考えのループに 捕まったままなら、唯の体温は上昇するばかりで体に良くない。
たった一日前まで精神的に酷使された体は真っ白なシーツにくるまれるうちにあっという間に 睡魔を運んでくる。
たゆとう水のなかにいるような心地で、唯は半ば自棄になりつつあった思考全てを"丸投げ"して 目を閉じた。
だからその間起こった出来事は、唯にはまったくあずかり知らぬものである。
唯は上岡の忠告もいざしらず、昏々と眠り続けた。彼女の眠りを妨げる微かな音が聞こえるまで。

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 (2006年9月26日)

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