真面目に生きてて何が悪い!


またしても保健室は奇妙な静寂に包まれる。ただし先ほどとは違う点をあえてあげるのならば、 緊迫した臨戦態勢のそれではなく、明らかに唯一人が身の内の混乱の波に取り込まれたと いうことか。
唯は救いを求めるように上岡を探したが、とうの上岡はただじいと唯を見据えるだけで 助けてはくれない。これくらいは自分で何とかしろということなのだろう。この部屋唯一の 大人である彼の言い分は尤もかもしれないが、当惑で鈍った唯の思考回路をもう少し慮って ほしかった。
恨めしげに上岡を短く睨めばあろうことか相手は強面のその顔を不敵な微笑みで引き締めた。 そんな意地悪な笑みが似合う教師に懐いた自分が悪いのだろうか。いな、それよりも こんなにも穏やかに話が終わったと思っていた自分が悪いのか。
(もっと元凶がいるじゃないの)
そもそもどうして三津谷がそんな事を言い出したのか。ようやくそこまで思考が舞い戻ってきた とき、それを見計らったかのように三津谷が再度口を開いた。
「今ここで話してみて、もう一回おまえとクラス委員組みたいって思った」
静かなその声に、唯は反論すら忘れてただただ頭を真っ白にした。
からかっているのかと聞く事すら愚問であるとでもいわんばかりの真面目な顔。切れ長の瞳は 限りなく真剣で、真摯な色を宿していた。
「さっきので お互いの腹の内は見せあっただろ。今からならいい関係で仕事できるって思う。 俺もこれからは気をつける。薙沢に負担かけないようにがんばるからさ。 ――もう一回おまえを指名してもいいか?」
戸惑いが先立って何もいえない唯から逃げ場を取り上げるように、三津谷の口調は優しいが どこか有無を言わせぬ迫力まで備わっているようにも思えた。
そんな空気に耐え切れずに体を強張らせながらも、唯はゆっくりと三津谷を見つめた。
もう一度お互いに意見を言い合ってやっていくというのも、 いいかもしれない。実際良い経験にもなるだろう。
それでも唯は素直に頷くわけにはいかなかった。
「悪いけど、断るわ」
悪いけどと謝りの言葉をつけるほどには、唯の三津谷に対するイメージというものは変わってきて いる。友達という関係を恐らく築くことも可能であろう。 しかし、だからといって自分がもう一度委員の仕事をしたいかと思うとそれは違う話だと 認識していた。
「なんでだよ。もう俺と組むのいやか?」
少しだけ表情を険しくした三津谷からは怒りこそ感じられないものの、微かな落胆が窺える。 それだけ一緒にしたいと思ってくれていると受け取るのは、少々うぬぼれすぎだろうか。 苦笑しながらも唯は口を開いた。
「三津谷君とするのがいやとか、そういうわけじゃないわ。問題はあなたじゃなくて、 私にあるの」
淡々と言い終える間に注がれる視線がまた一つ増えた。新しい視線の主など探すまでもない。 傍観者に徹していたはずの上岡だ。三津谷以上に心強く、やっかいな相手。 彼と目を合わせては自分の思う通りにことが運べないことはとうのむかしに経験済みだ。
上岡の視線には努めて気付かないふりをしながら、唯はただ三津谷のみを見つめる事に集中した。
三津谷は三津谷で、整った顔を困惑にゆがめている。どうにも唯の発言の意図が理解できて いないようで、何度か唇を開いては閉じを繰り返して、やがて慎重に声を出した。
「薙沢にあるって…いうのは、なんだよ。どういう意味だ?」
「それは…」
理由をこの場で口に出すのははばかれた。自分の臆病さを曝け出すという事だから。だが その思いも、唯はほんの一瞬で封じ込めた。曝け出すも何も、この二人には今更だと つい先ほど観念したばかりではないか。諦めのため息とともに唯は弱弱しく笑った。
「どんな理由があったにせよ、中途半端に突然放り投げたのよ?私だったら責任能力 を疑うわ。だから私が委員に戻ることはありえない」
劣等感のような塊のような言葉だが、それが真実だ。
全てを放棄した人間をもう一度信じろというのも無理な相談だろう。受け入れられたとしても 、いつまた逃げ出すのだろうという疑いの目はずっと向けられるはずだ。
それが怖いと思う気持ちはあるが、問題はそんなことではない。情け無い話ではあるが、 唯は自分が信じられない。三津谷にどれだけ説かれようとそれだけは変わりようがないように 思えた。
「―おまえ、なあ」
驚愕していた三津谷の顔が、徐々にその色を呆れにかえた。保健室の扉を背に、彼は 大きなため息をつく。怒りこそないものの、苦笑をかたどった三津谷の顔は どこか幼子を見るかのような表情で、唯は戸惑いつつも腹が立った。なにもそこまで子ども扱い の態度をとらなくてもいいではないか。文句を言おうと口を開こうとすれば、それも遮られた。 クツクツと三津谷の笑い声が漏れ聞こえる。控えめだったその笑い声も、唯と目が合った瞬間に 何故か一際大きくなった。
「―ちょっと、三津谷君?」
この男は一体どうしたというのだ。
鳴り止まぬ笑い声にいよいよ本気で心配しだした唯を他所に、他方からおおきなため息が聞こえた 。三津谷ではない、上岡のそれだ。
上岡も恐らく今までに見たことが無いほどの呆れきった顔をしていたが、唯と目が合うや否や 苦笑した。あまり笑った顔を見たことが無かった唯は、それだけでドキリとする。
そんな唯を数秒見遣ったうち、上岡はすぐに視線を逸らしいまだに笑っている三津谷へと 声をかけた。すっと伸ばされた右手の人差し指はデスク上の置時計を指し示していた。
「三津谷、とりあえずお前は授業に出ろ。先生は誰だ」
静かな上岡の声に三津谷はひとしきり笑い終えたかすれた声で担当の体育教師の名を挙げる。 目尻にたまった涙を人差し指で振り払う様を、唯は拗ねた表情で眺めるしかできなかった。
「わかった、相原先生には後ほど俺からも連絡をいれておく。だからおまえもさっさと授業に 戻れ」
「行くって。行くからちょっとだけ」
保健室の引き戸に手をかけ自身の身を半分ほど廊下へと出してから、三津谷は躊躇無く 薙沢を見据えた。とうに身構えていたはずなのに、その真剣な眼差しをまえにすると もう何も考えられなくなる。
「薙沢。どうしても駄目か?」
「同じ事しかいえないわ」
本当に悪いけれどと、囁くように付け加えたのは、三津谷の眼差しのせいだ。
視線を逸らしたいのに逸らせない。硬直したままの唯に何を思ったか、三津谷は大きく苦笑 してからにっと口の端をあげた。
「しょうがねえな、今回はひいてやるよ」
ひくといっているのに、どうしてそこまで不敵なのか。
閉められた扉越しに響く三津谷の足音に我にかえる。
そういえば クラスの女子が、試合でゴールを決めた時に見せるらしい会心の笑みもいいが、 難しい状況においても笑う不敵な笑みもたまらなく格好いいといっていたっけ。
そんな事をとっさに考える事で、かすかにとくりと鳴った心臓の音は聞かなかった事にした。


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 (2007年9月26日)

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