1."彼女"のきっかけ
九条湊
の元に友人の
並木和江
から電話がかかってきたのは、花盛りの春の暮れ頃。
五月のGWがあと少しで始まるという時だった。
かねてから行く予定だったというイベントのチケットが一枚あまってしまったという
友人は、その随伴相手として湊に白羽の矢を立てたらしい。
仕事上がりの金曜の午後に居酒屋に呼び出して、湊を取り入ろうと躍起になって説明を始めた。
「チケット一枚あまったなんて勿体無いやん!うちの体は一つしかあらへんから一回きり
の公演に二度顔を出すなんてできへんし。湊さえうちと一緒にきてくれたら、万事解決やねんて」
「そんなこと言うたってなあ」
梅酒片手に懇願する友人に湊は終始渋い顔で応じている。いつもと違う乗り気のなさに和江は
首を傾げた。
「なぁ頼むわ、湊。一緒に行こうや。…もしかしてお金の事気にしてるん?
それならチケットはうちがもつから、一切気にせんでええで?」
「そういうことやないねんて」
小エビのから揚げをつまみながら努めて素っ気無く言えば、案の定和江は眉を寄せた。
「ほやったら何?」
本気でわからないといった様子の友に苦笑しながら、湊は卓上に腕を伸ばした。
会話の最中ずっと置かれている件のチケットを一枚指先でつまみ上げる。でかでかと大きな文字で
書かれた文字を目で追うより先に和江が声に出して読んだ。
「春のお笑い大放出スペシャル!―関東関西若手に大御所入り乱れの豪華ラインナップで
4時間やで」
「これがなあ…お笑いやなかったら行ったかもな」
「なんでな。GW初っ端から笑いっぱなしやったら景気ええやん」
心外だとばかりに目を丸くしてそういった後、和江はそれにと湊の顔をほろ酔いの
赤い顔で見据えた。
「自分お笑いめっちゃ好きなくせに何いうてるん」
呆れたような彼女の声を聞きながら、湊はひっそりとため息をついた。
(―めちゃめちゃ好きやから、いきたないんやないの)
確かに湊はお笑いを見るのが好きだが、今回のイベントに関してはさほど興味はなかった。
湊好みの笑いを持ち味にする芸人があまり出ていないというのが最大の理由である。
お笑いが好きだからこその、ちょっとしたこだわりだった。
「だってこれ出るの、たいてい若手ばっかやん」
「若手なめたらあかんて。結構ええの出てきてるで?」
「最近の芸風がなあ、うち昔のしゃべくりがすきやからあんま楽しめへんと思うわ」
湊は自分が幼い頃からやっていた正統派のしゃべくり漫才というものが大好きである。
現在の若手も充分におもしろいが、それでも湊の中では微か柄も胸にしこりができるのは
確かな話だった。
「ピン芸とか嫌いやったっけ?」
「いや、それはないわ。ネタとか芸人にもよるけど、基本的になんともおもってない」
思ったままをぽんと口にしたのは、湊がこの会話に疲れてきているからだ。和江ほど酔ってはいないが
それでも自分だってほろ酔いなのだ。面倒なことは考えたくない。
ため息をついて、手に持っていたチケットをピラリと揺らして見せた。
「うち自分相手やから何の気兼ねもせんと、おもろなかったらおもろない顔すると思うで?
それでもよかったら行くわ」
「え、そんなんめっちゃ大丈夫やし!一緒にきてくれんのん!?」
明るくなった友の声は、酔いのせいかいつもより大きくて大げさだ。嬉しい思いもいくらかあるのだ
ろうと受け取って、湊は苦笑して鞄を引き寄せた。
手帳を取ってしおり代わりにチケットを挟みながら、湊は和江の方をみた。
「で、いつどこで待ち合わせにする?」
これが、"彼女"のご縁の始まり。
"彼"のご縁の始まりはその彼女自身から始まる。
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(2007年5月15日)
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