高らかに笑え!
2."彼"のきっかけ


彼が彼女に気付いたのは、全くの偶然だった。


篠田克己しのだかつき といえばあまりしっくりこないが、fラッシュの篠田といえば話は違う。
全国規模なんていうのはおこがましいが、テレビに映る 仕事であるが故にそこそこ名は知られているはずである。 数年前を境に"仕事"が増え、今は非常に安定している。 そんな彼は今日も、相棒の 渡良瀬快わたらせかい と共に仕事を終えたばかりで。
要するに舞台からはけたところで、快に声をかけた。
「なああの客見た?」
「どの客」
今日はテレビの仕事ではなく久々のホールでのライブ形式のネタ見せだった。客はそれこそ何百人 はくだらない。そんなわかりきった事は克己とてわかっていたがそれでもなお食い下がった。
「前列から15列くらい後ろの席のど真ん中座ってた茶髪の女」
「―そんなもんいちいち覚えてる暇あったら仕事に集中しろよお前」
呆れたような快の言葉は尤もだが、普段からそんなことをしているわけではない。ただ毎回舞台の際に 気になる客というものはいるわけで、今回はとりわけ強烈だったから相方もそうではないかと 思ったのだ。
だけどどうやら違うらしい。
不服さを全面的に表情に出しつつも、克己は足早に楽屋へと戻る快の後ろをすがった。
「だからさ、そいつが―おい、ちゃんと聞いてくれよ。なあ快、快君ってば」
克己のねだる調子に気を悪くしてか、楽屋へ片足を突っ込んだまま快が恐ろしい顔をして 克己を無理やり楽屋へと押し込んだ。
「気持ちのわるい言い方すんな!」
「なんだよ、お前の恋人の真似しただけじゃん」
相方の快には数年前から付き合っている年下の 彼女がいて、何度かトークのネタにしているのでファンも公認 の仲である。由利恵といって、少し抜けている快を影から支えるしっかり者だ。
あまりからかいすぎるとヘソを曲げるのを理解しているから、克己はからかいの色を薄めて 口角を上げた。
「今日も来てたな、由利ちゃん。大事にしろよ」
「お前に言われなくてもわかってるよ、馬鹿」
照れ隠しの仏頂面を楽しそうに眺めてから、克己は自分の本題をもう一度口に出した。
「そういや、由利ちゃんの真後ろに座ってたんだよ、そいつ」
「そいつって…さっき言ってた女か?」
そうだ親心のような感情も手伝ってか見守るように笑う由利恵の真後ろ、黒に近いさりげない茶の 髪を肩越しあたりまで垂らした女がなんとも微妙な表情でこちらを見据えていた。
つまらなさそうな顔だったが、別に白けているわけでもない。
ただ嵐が去るのを自分ひとり違う場所で眺めているかのような表情が、妙に克己を不安にさせた。
「全然笑ってなくてさ。そのくせ別にしらけてるってわけでも、元気がないってわけでもなさそうで」
「ふうん」
まあ、そんな人もいるわな。全く興味のない様子でそう締めた快は、 それきり椅子に座り込んで黙りこくってしまった。
今日の仕事はこれで最終であり、コンビは揃って大阪のビジネスホテルに泊まることになっている。
きっと仕事上がりの由利江との時間を想像しているのだろう。快の顔は至極柔らかかった。
相方とその恋人の仲がいいのはいいことだ。由利江という存在を手に入れてからというもの 相方のボケは更なる発展をみせたし、ちょっとしたネタ一つで売れてしまった自分達の更なる 生き残りのための基盤を充分に作ってくれた要因の一つだから。
だけども克己としては、もう少しあの笑ってくれなかった女性客の話がしたかった。
(確かに快のいう通りなんだけどよ)
全ての人間を気持ちよく笑わせることなど至難の業だ。それをあっさりとやってのけるレベルは 大御所の中でもはたして何人いるだろうか。
人には笑いの好みがあって、そればっかりはこちら側から知りようがない。
それなのに、彼女のあの顔が克己の脳裏に鮮明にこびりついて離れない。
(笑ったら、どんな顔するのかな)
どんな声を立てて笑うのだろう。そんな事を考えている自分がふと奇妙に思えて、克己は慌てて平静 をよそおった。
(今更もうしょうがねえことだし)
きっともう会うこともないから。


どこか残念に思いながらそんな事を考えていた克己の予想は、数時間後の大阪北新地の居酒屋で 気持ちいいくらい盛大に裏切られる事になる。






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 (2007年5月31日)

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