Dear Your Majesty



10.
クレーラが扉の傍へと音も無く近づき、小さくも明瞭な声で相手を誰何している。
扉を開けた際に脱走されるのを警戒しているのだろう。扉の外に意識を向けていながらも、 クレーラの眼差しはエルファから離れる様子がなかった。
こちらの一挙手一投足に目を光らせている彼女の視線を感じながらも、エルファは恨めしげに 扉を眺めた。
(いつになったら、私はここから出れるのかな)
あの数日前の時以来一度も会っていない彼女の夫―腹立たしい事だが、皮肉にもそれは事実だ ―に、離婚を申し出よう。そうすればすぐに出れるに違いない。
そんなことを夢想しつつも、それが容易ではない事くらいエルファにはわかっていた。
少なくともほとぼりがさめるまでは、ライナスはこの意味の無い関係を続けるのだろう。
それは当分この城に滞在しなければならないという事実に他ならず、それはエルファにとって 接する相手はクレーラのみという軟禁生活の継続を意味する。
(結局のところ、私には逃げ場なんてないのね)
そういえばあのとき、国王陛下は諦めろといっていた。いらぬことすら思い出してしまい、 さらに憂鬱になった少女は、外から微かに聞こえた声に驚いて椅子から立ち上がった。
「―エルファ"様"、どうなさいますか。お会いになられますか?」
いつ誰に聞かれてもいいようにと、今更ながらに使われた敬語も今は些細な事だった。
エルファが切羽詰ったように首肯するのを見て取って、クレーラは小さく笑ってドアノブを掴む。
「お入りください」とクレーラが告げるのを、エルファは先ほどとは全く違う気持ちで 見届けていた。
「は、これはご丁寧にどうも」
一礼をするクレーラに対しての恐縮の言葉なのに、どこか慇懃無礼に聞こえるその言葉。
長身の体躯を窮屈そうに折り曲げて礼をかえす無精ひげのその男めがけて、エルファは勢い良く 駆け出した。
「叔父さん!」
「よぉエルファ。なんだなんだ、綺麗な格好して」
父方の叔父で、グミナ城警備隊副隊長にしてエルファをこの城に送り込んだ張本人、 ルータス・トノアその人だ。
エルファは彼に言いたい事がそれはもうたくさんあった。確かにあったはずなのに、 精神が疲労した今この状況において久方ぶりに会う身内の存在は、彼女の心を何よりも 解きほぐした。
「叔父さん、ルータス叔父さん…っ」
「あー…だいぶきてるなお前。よーしよし一人でよくがんばったな。 もう大丈夫だ、ルータス叔父がついてるぞ!だからそんな顔するなって」
幼子のように突進して抱きついたエルファを、苦笑しながらも力強く抱きしめてくれる叔父は 本当にいつもと変わりなくて。
叔父の逞しい胸元に顔を埋めて、その存在を確かめるように抱きしめる腕に力を込めた。
ルータスはそれに負けぬ用に彼女の痩せた背をさすり、彼女の米神に労わりのキスをおとした。
「なぁエルよ」
確かめるように幼い頃からの愛称を呼ばれ、エルファは小首を傾げて叔父の顔を覗き込んだ。
「なあに、叔父さん」
「俺はよ、さすがに温厚なお前でも俺の顔みるなり殴りつけるか 罵声を浴びすくらいしかけてくるかと思ったんだが」
暗に恐ろしく我侭なあの国王の計画に加担したと自白したに等しいその言葉。
彼自らが差し出した事実はエルファが確かに先ほどまで気にかけルータス本人に確認しなければ ならないと留意していた事柄そのものだったが、エルファはようやく本当の意味で気を抜けた 今の状況で呆けたように呟くことしかできなかった。
「私も、そう思ってたはずなんだけど…」





ルータスも交えたお茶会は、じつに久々にエルファの気持ちを浮上させた。
陽気な叔父は幼い頃からの付き合いでエルファの話の嗜好を十二分に熟知していて、彼女 の笑いを巧みに引き出していく。
最初のほうは控えめでまさに召使然としていたクレーラまでもが打ち解けて同じ席について いることに気づいた時には、不憫な少女はほとんど通常の穏やかな気性を取り戻していた。
「おぉっと…もうこんな時間か。そろそろ戻らにゃ」
だからルータスが小さく呟いたその言葉にも、至極冷静に対応できた。
「叔父さん、今度はいつこれる?近いうちに来てくれると助かるんだけど」
彼からは事の経緯と真相をきちんと聞きださなければならないし、なによりこの篭城生活 の中において間違いなく彼はエルファの精神安定剤だから彼女としては早期の再訪を 必要としている。
普段あまりねだったことを言わないエルファにしてはせっかちなその言葉に驚いた様子を見せた ルータスは、それから豪快な笑顔を浮かべてエルファを抱き寄せ彼女の柔らかな茶毛を撫で付けた。
「ぶっちゃけどうなるかわからんが、そうだな、明日またこの時間に。またクレーラちゃんに おいしいお茶淹れてもらって話そうや」
「絶対よ?」
「慎重だなおい。ま、今回ばかりはしゃあないか」
顎を何度かさすりながら、ルータスは笑った。優しい眼差しはそのままに、彼はエルファをもう一度 強く抱きしめてすぐに離れた。
「っし、じゃあまた明日な。エルファ」
「…うん、明日ね」
「そんな顔するなって。んじゃあクレーラちゃんもまた明日ね」
部屋の入り口の前ですでに待機していたクレーラにそう声をかけてから、叔父はわざとらしいほどに 大げさな敬礼をしてみせた。
「では妃殿下。小生はこれにて失礼させていただきます」
じゃあな。無音で届けた言葉を最後に、ルータスは ほんの少しだけあけた扉の間をするりと抜けていってしまった。
「―――あのお方は、いつもあんな調子なの?」
「叔父ですか?ええ、そうですけど」
クレーラは一度不可解な顔をしたものの、ふうんと呟いたきりお茶の片付けをはじめてしまった。
繊細な陶磁器のカップとソーサーを持ち上げる彼女の動きはプロそのもので、完璧な城仕えとしての 所作にエルファは感嘆の声を上げた。
「クレーラさんって、もう何年ここに勤めてるんですか?」
「私?」
クレーラはしばし考え込むように口を噤んだ。しかしその間も、彼女の手は止まることなく片付け を終えていく。無駄のない見事な手さばきに見とれていると、クレーラは小さくそうねえと 呟いた。
「再来月で6年になる…と思うんだけど」
心許ない口調とは裏腹に、てきぱきと乱れる事がない手の動きに洗礼された身のこなし。 訓練されたと一目でわかるその動きは総じて無駄がなく一連の動きがすでに芸術の域に達して いた。
「すごいですね、やっぱり。違うものですねぇ」
「なによ、どういう意味?」
不思議そうに聞き返したクレーラに笑いかけて、エルファはそっと相手の手元を指を差す。 あんなにもたくさんあったティーセットが、全て綺麗にトレイの中へと片付けられていた。 整然として、それも端から見て見目の良いそのおき方は、到底真似できるようなものではない 。
「私、家が酒場で。ちょっとした料理も出すし、ほんの数室だけど宿屋のこともしてるんですよね。 だからいつも忙しくて、小さい頃からよく手伝ってました。だからクレーラさんの手際の良さに ちょっと驚いてしまって」
素直な感想に、クレーラは一瞬目を丸くしてからくうと目を細めた。
「あのね。いわせてもらうけど、私からいわせれば”まだ”6年よ。ヒヨッコだなんていうには ずうずうしかもしれないけどさ、それでもまだまだ精進ありきなんだって」
誉めそやされて悪い気はしないのだろう。片眉をあげてみせながらも、クレーラの表情は 柔らかかった。それにつられるように二人して微笑みあった。
「大変ですね」
「大変ですよ」
会話をきちんとこなしながらもてきぱきと動くクレーラの働きは、同じ働く身として実に好ましい。
叔父との再会で気持ちに余裕が生まれたからこそ発見できたその事実は、 苛立ちと虚しさで疲弊した彼女の気持ちを違う興味で満たすに充分な材料で。
エルファは先輩メイドの素晴らしい手さばきを 飽きることなくみつめていた。



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