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Dear Your Majesty 17. 「あ、あ、あ、あ、あの、あのっ」 「はーいエルファ、息吸って。落ち着いてね」 慌てて言葉にならないエルファの肩を労わりをもってクレーラに軽くさすられたが、その感覚はあっと いう間に消え去った。混乱しているエルファの腰をさらってそのまま懐のなかに引き込んだ人物が いるからだ。エルファを片腕で抱きとめたライナスが、呆れきった様子でため息をついた。 「お前は落ち着きすぎだ」 「褒め言葉として受け取っておきますわ、陛下」 恭しいはずの言葉遣いも、その口調からどうしても横柄に聞こえてしまう。機能がいまだ停止している 状態のエルファにとって彼ら二人の表情まで見る余裕など無かったが、それでもライナスが 微かに眉を寄せた雰囲気がありありと伝わってきた。 見ずともわかるその変化に、なきそうになる。この状況に動揺しているのが自分だけだという事も 拍車をかけているかもしれないが、とにかくエルファはこの場から逃げなければと真剣に考えていた。 だから突然声をかけられれば、自ずと声も上ずるわけで。 「エルファ」 「うぇ、はいぃ!?」 思い切り動揺したエルファに何を思ったのか、彼女を見下ろすライナスの表情はどこか企むようなもの に変わる。本能が必死に危険性を叫んでいるのに恐らく逃げられないであろうという事実から 、エルファの頭は混乱しそして現実逃避にでた。姑息 だろうが、とにかく話を逸らせないかと思ったのだ。 「私の名前、どうして知ってるんですか?」 「―――…」 「はぁ?」 ライナスの微かな瞠目を突き破るかの勢いで、クレーラが声を出した。本当に怪訝そうな顔をしている 先輩メイドに申し訳なくエルファは敵の腕の中でもがくのを忘れて恥じ入るように顔を伏せた。 あまりにも唐突過ぎて今更過ぎるその言葉でも、今のエルファには必要なのだから しょうがない。実際 彼女はパニック状態の最中にいきなり呼ばれた自分の名に驚いたのも事実である。 俯いたエルファのパニックが収まるのを待つかのような沈黙が続いた。数分たったのか、それとも 一分も満たないのかエルファにはわからなかったが、皮肉な事に押し付けられたライナスの胸板を 通した心音が徐々に彼女を落ち着かせていった。暖かい腕、力強い心臓の音は無条件に 人を癒す。すっかり元の状態にもどったエルファは小さく息を整え、自分からそろそろと顔をあげ た。 真っ先に視界に入ったライナスの表情は静やかな水面のようで本来ならば再び恐怖に脅えたに 違いないのに、エルファはやはり落ち着いた気持ちで相手を見つめる事ができた。 いまだ抱き込まれたままであるが故に、ライナスの腕の力加減や彼の瞳が存外に柔らかな光を 伴っていることにいち早く気付けたからであろう。 その事実に思わず頬を赤く染めたエルファを前にして、ライナスはようやくその顔に微かな笑みを のせた。威厳と自信に満ちたいつもの笑い方とは全く質の異なる優しい笑みに、 エルファは一瞬息が詰まる。落ち着いたはずの心が、少しだけ騒いだ。 「落ち着いたようだな」 「はい…、すみません」 小さく謝ったエルファにまるで気にするなとでも言うかのように ライナスは小さく笑った。 「おまえの名前を何故俺が知っているのかという話だが」 そこで一度語句を切り、彼にしては珍しく困ったようなそぶりをみせた。 「知っていて当然だろう。どこに自分の妻の名を知らぬ夫がいる」 「はい、それは」 全くもってその通りで。しどろもどろになってそう続けようとして、違和感に気付く。 通常の妻と夫の考えが、果たして自分達に通用するのか否か。考え込むように黙り込んだ エルファは、頭上から零れ落ちた微かなため息に再び我にかえった。全てを見透かした ような表情で、ライナスが少女を見下ろしていた。 「それで?おまえはどうしてここにいる」 「あ、えその」 「怒ってないし咎めてもいないから、とりあえずゆっくりと息を吸え」 もう一度問われた言葉に微かに慌てた彼女にライナスは文句なしの対応をみせた。 すべて先をとられたうえにそのあまりにも適切な内容に、冷や汗が伝う。 (完全によまれてる…) 確かに動揺はしやすかったが、ここに来るまではここまで酷くなかったのに。 恨めしげに思いながらも、エルファは観念したように口を開く。 「その―、ご容態の程を知りたくて」 「誰の」 「陛下のです」 あなた以外に誰がいるのかと言外に込めて即答すると、意外なことにライナスはひょうしぬけた顔を した。彼と既知の仲ではないエルファに とってはその反応をどうとっていいかわからないから、戸惑いつつも相手の更なる反応を 待った。 ライナスの次なるリアクションは、どこか解せない表情で、どうやら真相のほどを そこまで理解していないようだった。聡い彼にしてはどうにもきれがない。これではこの前と 同じではないかと、エルファは知らずうちに口を開いていた。 「やはりまだ万全な調子ではなさそうですね。今日もなるべく早くお休みになられたほうがいいの では」 この前と同様なほど顔が近い事をいいことに、エルファはまじまじとライナスを観察した。 一昨日ほど顔色は悪くないが、微かに頬のラインが鋭くなった気がする。思わず相手の頬に手を 添え、そのままの勢いで咎めるように相手を見上げた。 「激務でお疲れの事は重々承知ですけど、ご自分の体を大事にしてくださいね?」 全くかえってこない返事とは反対に、目の前にある相手の顔は如実に変化した。驚きを隠せない ような、それでいて何処か置いてきぼりをくらったような表情はおよそ国王陛下らしくなくて、 エルファはまた一つ小さな親近感を覚える。たった二つしか年の違わない人物なのだとついつい忘れ がちなのだが、今のライナスの表情は年相応だ。 不意に湧き上がった気安さから口元を綻ばして、エルファはニコリと笑った。 相手がまたも目を瞠ったが、直ぐにまたいつもの雰囲気を取り戻してエルファの手をとった。 ライナスの頬にあてがわれたままだったそれは、あっさりとライナスの大きな掌の中に おちる。 そちらに気をとられたエルファは、相手のもう片方の手が自分の体をしっかりと抱え込んだことに 気付けなかった。 「あ、の…?」 伺うように真下から顔を覗き込むしか術の無いエルファに対して、ライナスは微かに笑う。悠々とした 態度はあいかわらずだが、高慢さや癪に障るものを一切感じさせないその仕草にエルファは思わず 息をのんだ。 「様子を見に来てくれたのか―?」 「…はい」 真正面から問われて真相を口に出すのに戸惑いつつも、本当に今更だと思いなおして素直に首肯した。 それなのにライナスはどこか楽しそうに口元を歪ませてクツクツと笑った。 「面白い奴だな、お前は」 「なんでそうなるんですか?」 本気でわからなくてそう聞き返したのに、ライナスは低く笑ったまま答えない。それでも相手の態度か ら馬鹿にされていない事ははっきりとわかった。そんな事にほっとしている自分がどこか面映く なってきた少女の耳はライナス以外の声を聞き取った。 「あのさぁ、二人とも。いい加減私の存在を思い出してくれないかね」 それはしばしの沈黙を保っていた聞き覚えのある声で、全てを見られていたという事実とこれまでの 経緯にエルファは耳まで赤く染めて抵抗を示した。けれども当たり前に拘束は取れなくて。 どこか機嫌がよいライナスの腕から解放されたのは、それから更に数分がたってからだった。 |