|
Dear Your Majesty 19. あぁ、なんでこんなことになったんだろう。 そんな風に考えるのは、この城に来た時点で幾度どころか頻繁にあったのだけれど。 さすがに今のこの状況はどういうことだろうかと、エルファはパニックになりつつ考える。 考えるということは即ち、今の自分の状況から逃げたいという思いは彼女にとって同意語で。 「おい、何をしている」 (うぅっ) 現実逃避を素直にさせてくれそうにない人物に、脇を固められているということである。 (それもこれも、クレーラさんのせい…っ!) 元凶の人物は、数分前に満面の笑顔で退室した後である。彼女の颯爽とした後姿に、黒々とした 翼と尾が付いていたような気がするのは、エルファの気のせいだろうか。 確実にクレーラの罠にひっかかってしまったわけだが、その前兆にも気付かなかった自分がエルファは 尚更うらめしかった。 「おい」 「っは、はいっ!」 先ほどよりも格段に深みの増したライナスの声に、エルファの背は釣られるようにぴんと伸びた。 慌てて見上げると、当たり前のような至近距離からこちらを見据える漆黒の瞳がある。 その魅惑的な瞳にはこちらをどう調理しようかと考えている素振りがあって、 エルファは自分の背につぅと冷や汗が辿るのをありありと感じた。 危険だ、危険すぎる。エルファのなけなしの本能が必死になって訴えている。 速やかに退路を確保すべきだとわかっているのにできないのは、その退路そのものが 不敵に笑う先輩メイドにふさがれてしまっているからだ。そして目の前には 天下御免の国王陛下、策謀のはて一応は夫という立場にいる人物である。 ライナスはしばらくエルファの様子を眺めていたが、不意にその口元を吊り上げた。 あきらかに何かたくらんでいるその笑顔に、嫌な予感を覚えない相手はいないだろう。 エルファは恐る恐る相手の顔色を窺った。 「あ、あの…?」 「で、どうした」 「え、え、え?」 静かに問われたその言葉の意味を理解する前に、自分はどうにかなってしまうのではないか 。それでもまだそこまで大きなパニックに見舞われなかったのは、存外にライナスの態度が 柔らかいということと。何故か彼女の背に回った大きな手が規則的に撫でたり叩いたりと繰り返すか らということだ。ライナスなりの気遣いなのだろう、エルファは くすぐったさを覚えて思わず口元を綻ばした。 「―エルファ?」 「あのですね、実はクレーラさんに」 意外とすんなり出てきた言葉にほっとしたのも束の間、ライナスは固有名詞に反応して眉根を寄せた。 「あいつが、なんだと?」 どこか不機嫌なその様子を内心不思議がりつつも、エルファは正直に事の次第を話すことにした。 どんなことをさておいても、相手はエルファごときが謀れる人物ではない。逆に返り討ちにされる であろう事など考えるまでも無く想像できた。 「私、クレーラさんにメイドのお仕事を教えて下さいってお願いしたんですけど。 そしたらなんとかできるかもしれないって言ってくださって」 そう、それから『とりあえずついてきてくれる?』と言われ素直についてきた先がとんでもないところ で、エルファが混乱するすきをついて、クレーラはさっさと出て行ってしまったのだ。 「―で、着いてきた場所が俺の部屋だったと」 「は、い。その通りです」 小さく肯定したエルファをライナスは軽く顎をさすって唸る。その様はやはり何か企んでいるようで、 エルファは本気で逃げ出したくなった。 クレーラとて何かと含みがあるが、目の前のライオン陛下に比べれば、あからさまに彼女のほうが 安心圏だ。 たじろぐエルファを見てライナスは一つ微笑む。意外すぎる無邪気なそれに目を奪われているうちに、 いつものごとく腰を攫われてしまった。 「ちょ、あの!?」 「俺の部屋に通すとはどういう考えなんだろうな?」 「わ、わか」 わかりません。噛みながらもそう言おうとしたエルファの行動そのものを塞ぐように、ライナスは つっとその端正な顔を近づけてエルファの耳元へと吐息を落とした。 「奴なりの気遣いか。それならこちらとしても誠意というもので返さなければ。なあ?」 「――っ」 であった当初からエルファを惑わすその声が、甘い意味合いがたった少しだけ含んだだけで 凶悪的に反則だ。心臓の裏側を触られているような奇妙な痺れを感じて、エルファは恥じ入るように 頬を赤く染めた。できれば顔を隠してしまいたいが、何故か目を逸らす事ができなくて、エルファは 漆黒の瞳のなかに自分が吸い込まれていくような錯覚まで覚えてしまう。 徐々に近づいてくる相手の瞳のなかに自分がくっきりと映っていることが、強烈に恥かしくて。 思わず目を瞑ったエルファを待ち構えるように、ライナスがくつりと笑った。 「はーい、そこまで。悪いけどお楽しみは後にとっといてもらえませんかね?」 「――――っっっ」 突然割り込んできた第三者の声は、ようやくエルファの思考を正常にした。正気を保った状況で 見遣るには、あまりにも近すぎるライナスとの距離といつの間にか後頭部を抱えるように 添えられた大きな掌。誰でもいいから今すぐこの場から自分を攫ってくれないだろうかと 、エルファは泣きそうな羞恥心に包まれたが"夫"はどうやらそうではないらしい。 不機嫌極まりないとばかりに眉根をよせて、侵入者たる召使に睥睨した。 「クレーラ、邪魔をするな」 「邪魔?何のことでございましょうか、陛下」 唸るようなライナスの言葉に身を竦めたエルファに対し、クレーラは小揺るぎ一つしなかった。 素知らぬふりを堂々と貫いて、慇懃無礼に他ならない様子で頭を垂れる。いつもと変わらない 彼女の仕草に対して、ライナスは小さくため息をついてからエルファの頭をそのまま自分の胸元へと 押し付けた。一貫されていない行動に一番振り回される少女は、せめてもの抵抗を示したが かっちりと押さえ込まれていて顔を上げることさえできない。 状況の把握をする前に、自分の頭が沸騰してそのまま蒸発してしまいそうだった。 「あいかわらずぬけぬけと」 「まあ、陛下。私は先ほど少々お暇させていただきますと伝えておりましたが。 しばしの暇の挨拶としては適当な言葉でしたが、それでも私のせいとお思いで?」 「―いい度胸をしている。主の部屋に許可なく入る召使など聞いた事がない」 「恐れながら申し上げます。私の雇い主はあなた様ですが、陛下。私は現在 国王妃エルファ"様"付きにございます。御方の危機を招く要因はたとえ一国の主であれど、排除するの が私の務めというものと考えておりますが」 ライナスの腕の中、しかも自発的ではないにしろ胸に顔を埋めるという形になっているエルファには 二人の表情は状況など、まったくわからない。言葉さえもライナスが喋るものこそ体に響いて よくわかるが、クレーラの言葉は途切れ途切れにしか聞こえないというのに。 (こ、怖い…) 背筋を思わず丸めたくなるような謀り事の空気を、ひしひしと感じるのだ。 一気に強張ったエルファに気付いたのか、ライナスは小さくため息をついた。同時に 心臓に悪い空気そのものが飛散され、心なしかエルファを拘束する腕の力も弱まった気がした。 「で、おまえは何を抱えてきた」 「掃除道具です。いっときますが、私のものではありません」 そこで一呼吸おかれて、クレーラがニコリと笑った気配がした。 「エルファのです。今日からこの部屋の掃除を エルファにもしてもらおうともらいます」 いずれは一人でやってもらうようになりますから。よろしくお願いしますね。 さっさと説明を終えてしまうクレーラを言葉を聴きながら、エルファはようやく自分がここに つれてこられた意味を知る。先輩メイドである彼女はきちんと、エルファの思いを受け取ってくれた のだ。 そう思いつつも、エルファは素直に喜ぶ事は到底できない。 「ほう…?」 それはおそらく色々な意味と思惑がない交ぜになった呟きを、しっかりと聞いてしまっているからで。 (無理です―!) 諦めの思いも籠めて、心の中で大きく絶叫するしか情けない事に今のエルファには成す術がなかった。 |