Dear Your Majesty



23.


「遅くなってすまない」
声量を抑えた低いその声は、待ち人が来る合図であり。エルファは心の中で三数えた後 ゆっくりと頭を上げた。腰掛けているソファから立ち上がろうとするのを、ライナスは 片手で制す。音も無く閉まっていく扉は恐らくクレーラの仕業だろう。有能な彼女は、 陛下のお出ましをエルファに一言だけ告げて、彼と入れ替わり部屋の外へ出ていってしまった。
室内には、エルファとライナス二人しかいない。そんな状況は別に初めてのわけではない し、そのたびに極度の緊張を迎えるのだが、今回はそれらとまた違った緊張だ。
ドキドキするわけでもなく、むしろそういった意味ではエルファは至極冷静だった。
「遅くなってすまない。―もう寝るはずだったのだろう?」
ライナスはエルファの前に立つと、もう一度同じ言葉を口にした。後半の言葉とともに、ライナス は視線を部屋の奥へとうつす。つられるように背中越しに振り返った先に 寝台が見える。先ほどまでクレーラと二人がかりで支度した シーツが蝋燭の光りで淡く浮かび上がっていた。
「いえ、大丈夫です。あの、どうぞ座ってください。お疲れでしょうし」
そういって自分の隣、人数人分が座れるであろうスペースと、その隣に置かれた一人用の ソファを見つめる。どちらに座るだろうかと考える一瞬の暇すら与えず、 ライナスは迷うことなくエルファの隣に腰を下ろした。
どうしてだかそのことが嬉しくて。だけどどうして嬉しいのか考えると、 心臓が大きく跳ねて邪魔をする。
うっすらと赤くなった頬を隠すように、エルファは数秒俯いて呼吸を整えるべく目を閉じた。
「エルファ?」
「大丈夫です、なんでもありません。陛下」
付け加えるようにかすかに口の端を上げて見せれば、ライナスは眉間に皺を寄せた。 不機嫌一歩手前といったその表情の意味を、エルファはもうわかっている。ゼロからのスタート だった二人の時間を思えば、たいした進歩だと思う。骨のいる作業にしばし葛藤してから、 エルファは覚悟を決めて小さく息を吸った。今日は些細な事でも時間を先延ばしにしていた くはない。もうすぐ就寝のこの時間までエルファを訪ねに来れなかったという事は、 ライナスは先ほどまで多忙でいたという事だ。少しでも話を早く聞き終え、 就寝して疲れを取って欲しいのだ。
「ライナス、様。―あの、お話を」
「ん。そうだな、そうだった」
名を呼べと長いこと強調していたライナスは、エルファの呼びかけに幾分表情を和らげ る。上体をエルファのほうへと向けてじっとエルファを覗き込んだ。夜の帳のような深遠な黒の 瞳が、エルファを捉える。戸惑うことなくそれを受け止め、エルファは静かにライナスの口が 開くのを待った。
「―明後日の夜、国主催の舞踏会がある。国内はもとより同盟国はじめ各諸外国からも 王族宰相クラスが出席することになっているんだが。それなりの規模だから 準備だけでも一てまあってな。 結婚してから随分と忙しかったのはおおむねそれが原因だった」
「舞踏会……」
無意識に口からこぼれた言葉は、エルファの今までの人生において全く関係の無かった ものだ。突拍子のない考えに思えて仕方なく、エルファは気の遠くなる思いがした。 隣にいるのはやはり王族なのだと、改めて認識してしまう。それがなぜか、どうしようもなく せつなかった。
「場を離れやすいぶん、座りっぱなしの 晩餐会よりはましだとヴァンは言うがな。どちらにしても大層な事だと思うし 俺は好かん」
だけど、とライナスはそこで言葉を一度区切りエルファを再度見据えた。あれはまだ、 ライナスという存在をどう捕らえたらいいのかと戸惑っていた時に感じた 百獣の王のような威厳のある態度。逸らすこともできずに、エルファもただただ真剣に ライナスの言葉に耳を傾けた。
「国政としてみれば、しないわけにはいかんのだ。結婚の報告はほとんど間を置かずして親書の 手配はしていたが、それだけでは場は収まらないからな」
同盟国とはまこと親しき仲でなければならぬ。奇麗事であれそういった信条が国家間で交わされて いるということは、エルファもアカデミーで習っていた。基礎知識しかない彼女でも 、確かに王としての結婚は一般庶民や一貴族の結婚とは訳が違うということは理解できた。 国と国の問題になってくる。同盟国同士が親交の証として互いの王族から選出したものと 婚姻を組ませるというのは最早定石で、正直のところエルファはグミナの若き国王も その道を辿るのだろうと半ば当たり前のように考えていた。尤もそれもこうなる以前の話 であったが。
(国王って大変なのね)
他人事よろしく浮かんできたその言葉は、されどそう簡単にライナスへ向けて口に出せるもので はない。幽閉されはじめた当初、熱を出しても仕事へ向かっていたライナスを思い出す。 激務の最中だったからだろうとは思うが、それでも国政というものを扱うというからには ライナスも相当の重責を背負っているのではないだろうか。町娘の自分にはそれを理解する ことは難しいから、せめて体の疲れだけでも取って欲しいと思った。
常日頃からそれなのに、明後日はその仕事に加えて舞踏会。この人はそのうちばたりと 倒れてしまうのではないかと、本気で心配になってエルファはまじまじとライナスを 見つめた。
「なんだ?」
「え?」
「何か言いたそうに見える」
降ってきた言葉に、エルファは内心驚いて目を瞬いた。まさかライナスが、エルファの心情を 読み取るなどと考えもしなかった。
言葉が詰まって出てこない。口を開こうものなら、そこから暖かい何かがこぼれてきてしまいそ うで、エルファは戸惑うようにライナスを見つめる。自分の感情がさっぱり理解できなかった。
「あの、お疲れでしょう?」
自分の思惑の経過で浮かんできたその言葉は、彼との会話の流れにおいてかなりかけ離れて いる話題だという事を口に出してから気付いた。 呆れられると恥かしさで顔を赤らめたエルファに反し、ライナスはただ 困ったように苦笑するのみで。普段の印象とはかけ離れた大人しいリアクションに 、エルファは再度驚きと不安を覚えた。
「―ライナス様?」
思わず確かめるように呼んでしまった名が、二人きりの部屋に響く。ひどく近い距離 にいる相手には、さぞや聞き取りやすかろうと思うほどにそれははっきりとした 声だった。
数拍の沈黙はただひたすらに穏やかでかすかにじれったく、その間も ライナスは苦笑を隠そうとはせずただただエルファを見つめていた。どうしていいかわからず 、落ち着きをなくしていく彼女に何を思ったのかライナスは笑い出す寸前の顔をして エルファの髪をかき混ぜた。やや乱暴なその仕草に気をとられたエルファは、彼の空いた手が 彼女の肩を捕らえ引き寄せても何の反応も返せずすっぽりと相手の腕の中に半身を寄せて しまっていた。
「心配してくれるのはありがたいが、今回ばかりは自分の心配をしたほうがいい」
「自分の?」
小さく聞き返したエルファに、ライナスは短く首肯した。 ライナスの形良い唇が言葉を成そうと動くさまが、殊更ゆっくりに見えて。 やがて声が。エルファの心を囁くだけでうっとりと懐柔させる魅惑の重低音で、 彼女の戸惑いの瞳を驚愕へと変えた。

「俺は、その舞踏会におまえと一緒に参列したい」



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