Dear Your Majesty



26.


数週間ぶりに顔を出した酒場は、かわらずの盛況ぶりだ。久方ぶりの エルファの出現に、なじみの連中は揃って楽しそうに声をかけてくる。 それを除けば普段となんら変わらない毎日で、エルファは数刻前までの苦悩などなかったかの ように、忙殺されていった。
「父さん、鍵屋さんがピクルスの盛り合わせ追加って」
「わかった。エルファこれ頼む。デンツのとこだ」
久しぶりの接触だからか、父ドークスの反応は少しぎこちなかったがそれもやはり 夕暮れ前までだった。日が暮れる頃からが酒場は徐々に忙しなくなる。あまりの忙しさに とりあえず少しでも早く捌ける事を優先した結果か、父の態度はすっかりいつも通りだ。
カウンターに置かれた醗酵酒を受け取って、エルファも通常通りの態度で受け答える。
賑わったテーブルとカウンターの間を泳ぐように行き来する。考え事などできない 戦場と化している酒場の間を、エルファは無我夢中で動き回り手伝った。
懐かしい感覚はすぐにエルファを飲み込んで、彼女も楽しさとともに 手伝いに精を出す。幼い頃から染み付いた感覚は、まさに彼女の日常だ。
昔からの知った環境に再度身を潜めると、再度その居心地のよさを 強く認識する。
ともすれば、昨日までの生活とそれを恋し泣いた自分すらも 、朝方の夢かと思うほどに。
「―嬢ちゃん?」
どうしたんだい?と問う声に目を見開く。 常連の一人である大工の親方が、怪訝な顔でエルファを見上げていた。 彼等へ持ってきた注文の品を、自分がずっと手放さずに突っ立っているのだから 怪訝な顔をされても仕方が無い。慌ててすみませんと返して、相手の机に大皿を乗せた。
親方は今一度懸念の表情でエルファを見るに留めてくれたが、なにせ酔いしれる場である酒場だ、 それですんでくれないのがすっかり出来上がってしまっている同じく馴染みの親方の連れ達だ。
今宵も親方と同席していた弟子連中は、すっかりできあがった顔をやにさげて開口した。
「なんだなんだ、エルファちゃんよぉ!恋煩いかぁ?」
唐突なその言葉に場は冷やかすような笑い声がどっと上る。そんな中、エルファは常のように あしらうことも忘れて呆然とした。
(恋煩い…?)
瞬時に思い出したのは、胸を締め付けるような甘苦しい気持ち。ベッドでうずくまった時、 ずっとその脳裏に浮かんでいたのはクレーラの眼差しと、それを軽く凌駕したライナスの言葉と 表情。
(あ……)
思わず口に手を当てた。そんなエルファを前に何を思ったか、それとも酔いの中そこまで機微を 感じ取れないのか。がはがはと恰幅のよい体を揺らして馴染みの客達は高らかに笑っていた。
「まあよ、前ならそうもいえんかったが、今のエルファなら」
「―――叩き出されてぇか、貴様等」
笑い声がピタリと止まると同時にエルファの視界が激しく揺らぐ。自分と客との間に おおきな壁ができていた。壁という名の大きく逞しい背中。幼い頃からいつも自分を護ってくれた 象徴のような後姿を、他の誰が間違ってもエルファが間違うことなどありえない。
「と、父さん?」
目を白黒させて、エルファは戸惑いがちに声を上げた。
いつもは客の騒ぎを豪快に笑っていなす陽気な父親が、剣呑なまでの気を放っている。背中越し だけでも強烈なその様だ、前から拝んでいる職人連中にはきつい事この上ないだろう。
現に彼等の顔は青ざめ、酔いなど冷め切ってしまった表情が、ドークスの背越しに見えて エルファは冷や汗をかいた。
幼い頃から大好きな父であるが、怒られることも手をあげられる事も幼い頃はしばしばあった。 そんな自分でも、今の彼の様は見た事が無い。そういえば城でルータスと再開したはじめ の頃、彼がドークスに殴られたと言っていたことを思い出す。 あの時は到底信じられず半信半疑で聞いていたが、今ならそれも信じられる気がした。
ルータスといいドークスといい、この兄弟は怒らすと普段とのギャップも手伝ってただ ひたすらに恐ろしい。
つい昨日みたばかりのルータスの怒り方と父の現在の所業を重ね合わせて、エルファは尚更 戸惑った。
あの時はクレーラがいたが、今はエルファ一人だ。とめられるだろうか。
(あ、あ、母さん!)
そうだ、母を呼べば良い。鬼に金棒のようなとっておきの解決策を見つけたエルファは、きょろ きょろと視線を酒場内へと巡らす。
さすがというべきか、ミルアはもうすでにこちらの騒ぎに気付いていて、近づいてきている。
至って普通ののんきな表情で、異変に凍りついた面々に軽く声をかけながら悠々とエルファの傍に 立ち、ついで夫の腕をペチリとはたいた。
「ちょっとあんた、こんなとこに突っ立ってちゃ邪魔でしょうに。早く持ち場に戻りなよ」
「あぁ!?」
「ああ?ああって何さ。熊みたいな返事やめてくれない?私はね、人間と結婚したんであって 動物とひっついたわけじゃないんだからね!」
負けていない態度にぽんぽんと良く回るその軽快な口調に、周りがたまりかねたように噴出した。
おそらくそれを狙っていたのだろう、俄かに温度の上った場内にすかさずミルアが笑って詫びを 入れた。
「悪いねえ、あんた達。気にせずもうちょっと飲んでいってよ」
「いや、こいつらが悪い。うちのが悪かった、ドーク」
弟子の頭を容赦なく叩いてから、親方はドークスに声をかける。それからようやっと、エルファの 視界が明るくなった。父がどいたのだということは明らかで、まるで興味を失ったかのような 無表情でドークスはカウンターの方へと戻ろうとしていた。
「エル、ここはもう良いから上れ」
それを傍観していたエルファは、ドークスからかかったその言葉に驚いて母を見た。
いつも頃合を見計らって撤退させられてはいたが、それでも今日は早すぎる。考え事から逃げて いたい思いから、この場に留まりたいとは思う。思うが今の父には恐らく逆らってはいけない のだということも、エルファは本能でわかっていた。ミルアも苦笑こそするも、 エルファの援護に回らないところから判断は妥当だ。
「…はい」
「ん、ご苦労だったな。あがったらフェイの子守頼むわ」
小さくそう呟いたエルファの言葉を聞き取り、ようやくドークスの背中から張り詰めたものが 抜け落ちたかのようにも見えた。
今迄で一番気さくな調子でそういって、ドークスは今度こそカウンターのほうへと戻っていった。
「あの。そういうことなので。私は失礼します。どうぞ楽しんでいってね」
日はとうに沈んだといっても、帰るにはもう一騒ぎ足りない時間だ。終始親子のやり取りをみや っていた客達に頭を下げてから、エルファは最後親方達にも向き直り改めて頭を下げ 最後は母を一瞥した。
後は任せろと頼もしいサインを受け取り、エルファはようやっとその席をあとにする。
「ほんとすまなかったね、うちの亭主が」
「いやいや、気にしないでくれよ。―にしてもありゃあドークさんも大変…」
「おちおち寝ていられねえよな、あの調子じゃあ」
「まあ、嬢ちゃん見てたらわからんでもないけどな。しばらくみんまに…」
どうにも違和感を覚えずにはいられない先ほどのやり取り。その謎を更に深まらせるような 母と常連達の会話がエルファの耳朶を僅かに掠めた。
解せない。そう思いつつもエルファは裏方に引っ込んだのだった。




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