Dear Your Majesty



6.
耳を劈くような歓声で、その場所は満ちていた。
何のための覚悟を決めるのかもわからぬまま、ライナスの腕の中でエルファは首をめぐらした。
そこは、部屋だった。
エルファが寝かされていた無意味に広いあの場所と規模ははなんら変わらない。
違う事といえば、この部屋はどうやら私室というよりは応接室のようであるという事。
窓が大きく開け放たれ、そこから白い豪奢なバルコニーの一端がエルファにも見えた。
高台に聳えたつこの城は広大な面積を誇る首都でさえたいていの場所から一望する事ができるのだと 教えてくれたのは、クレーラだった。
昨日の夕刻、廊下の窓から眺めた茜色に染まった生まれ育った場所はとても美しかったが、 この場所から見る景色は、昨日の場所よりも遥かに高い場所なのだろう。
首都を囲んだ石壁の向こう、隣の都市へと続く街道までもが容易くみれるようだった。
今はまだ部屋の中央で、それこそライナスに抱えあげられている状態だが、あのバルコニーにでて みる景色はきっとここからよりも格別に違いない。
「ライナス」
景色に見入っていたエルファは、愉悦を含んだ声に気付いて慌てて顔を上げた。
(は、恥かしい…っ)
弾けて消えてしまうのではないかと思うほどに顔を赤く染めた少女をライナスは口の端をあげて 一瞥してから、ゆっくりと首を巡らせた。
「その子が例の?」
「あぁ」
あいかわらず楽しそうな相手の声に対しても、ライナスは平然としていた。
それでも収まらないひそやかな笑い声が気になってそろそろ顔を上げた先に、ライナスと良く似た 双眸の男がこちらを嬉しそうにエルファの顔を覗き込んでいた。
「あ…」
この男は、いやこの方は誰だろうか。
呆然としたなかで浮かんだ思惟を、無意識に訂正した。それほどに目の前の男は一目で高貴な層で 長年生きてきたのであろう風格がにじみ出ていた。
聡明と謳われる若き王の横に並んでも、なんの遜色も感じずかといって潰されることはありえない だろう存在感。
肩まで伸びたまっすぐなダークブラウンの髪を後頭部でゆるく一括りにしていて、 あまり男らしさを感じさせない風体だが、それでも女々しく映らないから不思議だった。
「初めまして。エルファとは君の事だよね?」
柔らかい声音がエルファの耳に心地よく響く。
城に雇われた身といえど取るに足りぬ新人メイドの名をこの貴人も知っているのかと、 驚くよりも不安で震えた。
一体何が始まるというのだろうか。エルファの本能は先ほどから警鐘を鳴らしているのに、肝心の 本人はいまだライナスの腕の中で逃げる事もできない。
爪先からジワジワと這い上がる不快なそれに身を固めつつも、エルファはそれでも慌てて 口を開いた。
相手の身分など知らないし、貴族階級のことなど名だけ知っていれば充分だった根っからの一市民 の自分だったが、それでも彼は只者ではないとわかる。
国家の頂点に立つライナスに向かって、対等の言葉をつかっているのだ。
おまけに二人の顔立ちはどこか似通っている。間違いなく親族だろう。雇われている身として、 粗相はいけないと思ったのだ。
支給服に程遠いドレスを着て、あまつさえ国王陛下に抱き上げられているこの状態で礼儀も粗相も あったものではないのだが、縦続きのありえぬ事態と得体の知れぬものに振り回される不安の連続 で、エルファはその事実に微塵も気付かなかったがそれはそれ。ご愛嬌ということだろう。
頭を下げて挨拶を述べようと身を乗り出したエルファは、体が唐突に傾いで小さな悲鳴をあげた。
なす術もなく傾いだその方向、ライナスの胸元へと顔を思い切り押し付ける身となった少女の叫びは 上質な国王陛下の服に吸い取られている。
「ああ、そうだと言ってるだろうに」
何が起こったかわからないエルファの耳元に、低く圧倒的な魅力を備え盛った声が響く。
一度聞いたら間違わない、ライナスのその声は先ほどよりもどこか素っ気無かった。
「僕は君じゃなくてこのお嬢さんに言ってるんだけどな、ライナス」
「ヴァンが不用意に近づくからだろ」
逞しい胸に顔を寄せたままエルファは思わず目を瞬いた。どういった理由でそんな台詞が 繰り出されるの かが、全くもってわからなかった。
だけれどもそれはエルファ一人だけが謎のようで、ヴァンと呼ばれた 男には不可解なあの一言だけで全てを合点したようだった。
呆れを濃く映した美しい瞳が、ライナスへと向けられた。
「ライナス、君ねぇ。名乗る時間くらい与えてくれてもいいだろうに」
「じゃあ今すぐ名乗れ。そして離れろ」
「…やれやれ、エルファちゃんも大変だな」
「気安く名を呼ぶな」
「―ほんとに、君って奴は…」
エルファが口を出す隙すら無い会話が少女の頭上で通り過ぎていく。
ようやく緩まった拘束にほっとして微かに身じろぐと、所在無くしていた自分の右手が ふわりと相手の口元まで持ち上がった。
「あ、あの…っ?」
目の前の男が持ち上げたのだとわかってはいるが、女好きするその顔で微笑まれるとどうにも 落ち着かない。うろたえるエルファを宥めるように、男の落ち着いた漆黒の瞳が すっと細まり、そのまま弧を描いた。
「こんにちは、エルファちゃん。僕はエヴァンス・ファル・グミナ。 この国の宰相でライナスとは一応親戚筋にあたる者だよ。初めまして」
(エヴァンス・ファル・グミナ…!?)
エルファは彼の名を聞いて畏怖と驚きに目を見開いた。
グミナ国の市民なら知らぬものはいない、わが国の若き王を支える左腕と称される男である。
前王の歳の離れた弟で、ライナスが叔父。一応どころではない。 彼は確実に王族としての中核を成す一人だ。
呆然とするエルファを他所に、偉大なる宰相殿の自己紹介はつつがなく続く。
「僕のことはヴァンでいいからね。あ、君になら特別にエヴァと呼ばれても――ちょっとライナス、 そんな目で僕を見るの止めてくれないかな」
「なに、死んでくれないだろうかと思っただけだ。気にするな」
サラリと平素と変わらない口調で紡がれた言葉の意味に、エルファは肝を潰した。
驚いてライナスを見遣るが、そこには怒りの表情はない。怒りどころかめぼしい感情の揺らぎすら 無いその様は、いたって普通のようであった。
いくらなんでも叔父にあたり宰相でもある人物に言いすぎではないだろうかと狼狽する エルファは、控えめな笑い声と共に返されたいらへに呆気にとられる事になる。
「君にそんな事を言われてそのまま気丈に振舞える人間なんて早々いやしないんだから、気を つけて言葉を選ばないと。全く僕が気の弱い男だったらどうするんだい。 よかったね、ライナス。君の叔父上がなかなかに強かで」
「強か、な。それでは言葉が綺麗すぎる。おまえには図太いで充分だ」
いけしゃあしゃあとはこの事かとばかりの言葉の応酬は、裏に含む不穏なものが一つも無いゆえに 面白い。
自然と緩んだ頬をそのままに二人のやり取りに耳を済ませていれば、 ふ、と息の抜けた音が先ほどよりも存外近くに感じて驚いて顔を上げた。
夜の帳を思わせる絶対的な黒の瞳に、準備も何もないままに絡めとられる。
王者と言われるに相応しい眼力を前に エルファが脅えを感じなかったのは、彼のその眼差しに柔らかい色が浮かんでいたからだ。
「やっと笑ったな」
「え…?」
「やっぱり女の子は笑ったほうが可愛いって言いたいんだよ、甥っ子殿はね」
言われた意味の唐突さに、エルファはただ目を瞬かせた。
ライナスの言葉に誘われるように少女を覗き込んだ エヴァンスも相好を崩している。
美しい男二人に見つめられ、エルファは再び落ち着きをなくして逃げるように視線を外してしまったが 、それすらも彼らにとっては楽しくてしかたないらしい。
なんとも奇妙なその空間を裂くように、窓の外からは絶え間なく歓声が聞こえる。
「ああ外野がまた煩くなってきたね。そろそろはじめようか」
エヴァンスのどこか のんびりとしたその言葉に、ライナスの常よりあまり崩れないその顔が一段と引き締まる。
何も知らぬエルファは、あまりにも対照的すぎる彼らの様子を眺めることしかできなかった。


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