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Dear Your Majesty 8. 家族以外の異性に限るが、 額から鼻、唇へと順におくられる口付けは、グミナに住む女性にとっては たいへん重要な意味を持つ。 それは貴賎関係なくグミナにおける全ての結婚式で行われる 儀式的な仕草である。 伴侶としての誓いが終わった二人が、夫婦になる瞬間といってもいい。 この国の住民ならば、子供でもしっている事だった。 だからといって、今この瞬間に何故自分が施されているのか。 ライナスのあまりにも突飛な行動は、エルファの思考の数歩先をいっている。 仄かな熱が数秒の後はなれていった唇を押さえたまま、エルファは呆然と目の前の相手を見上げた。 いくら年のわりには経験も興味も無い少女でも、目の前の男がしでかした事の意味というものは 理解できたからだ。 「な、な……っ」 呆気にとられたエルファの視線の先で、威厳ある国王はニヤリと瞳だけで笑っている。 その後ろで彼の叔父たるエヴァンスが頭を抱えていたのだが、そんなことは構っていられない。 「なに考えてるんですか…っっ!?」 悲鳴にも近い声を上げて、少女は彼の腕の中でもがいた。 子供でも知っている、夫婦となるための合図。 それが今、こんなところでとんでもない人によって実にあっさりと敢行されてしまったのだ。 パニックになったエルファを責める人など、きっと誰もいないだろうと思えた。 むしろ相手の許可なしに人生にも関わる事をやってのけた男に非難は集中するはずなのだ。 しでかした人物が、国王陛下という職業を持つものでさえなかったら。 「伴侶だといったろう。連れ添うために必要な儀式だからな」 「あんまりだ、あんまりだよライナス」 あっさりと言い放つライナスは、あいかわらずの威厳を放っているが今のエルファにはそれは何の 脅威にもならなかった。 日常を逸する今のこの状況についていけない。そんなエルファの唯一の慰めは、ライナスと同じ 王族でもあるエヴァンスの至極まともな反応だった。 「神聖な誓いだ!夫婦が誕生するという意味を持つ、それはそれは重要な儀式なんだよ! それを君はこんなあっさりと…相手の許可すらえずに!」 貴人が声を震わせて、甥の暴挙を批判している。 そんな中、エルファは湧き上がる感情に身を震わせた。 (今日始めたあった人に…あんな事された!!) 自分への冒涜だ。国王だからってこんなことまでしてもいいのか、酷すぎる。 屈辱的だという思いから、怒りとも悲しみとも分別できぬ様々な感情や言葉が、エルファを圧迫する かのようだった。全ての神経がそれによって麻痺される。そんな感覚に身をつまされるように 、気がつけば嗚咽を漏らしていた。 「もうやだ、なんで…ぇっ」 一体自分が何をしたというのだろう。 流されてあれよこれよとことが進んだ事に関しては、確かに責任の一端はエルファにもあるだろう。 だけどそれでもこの仕打ちはないだろう。 怒りよりも悲しみのほうが先にたつ。流れ出る涙に抵抗するように、嗚咽を必死にかみ殺した。 「私が…、私が何をしたというの?なんで、なんでこんな…っ」 皮肉な話ではあるが、感情が昂ったエルファは今日一番毅然としていた。 少女の豹変振りに息をのむ宰相の横で、国王は切れ長の瞳を細めて腕の中へと視線を落す。 試すようなそれに動じることなく、エルファはしっかりと声をあげた。 「降ろしてください」 「何故?」 魅惑的な声に、本能がかすかに震える。それでも今は、それをも上回る感情がエルファを支配し 制御していた。 「こんな体制では、ゆっくり話を聞く事はできません」 「話す?何をだ」 「それ、本気で言ってるの?」 エルファは思わず敬語抜きで言葉を放ったが、今現在においてそれはどうでもよいことのように 思えた。 実際そうなのだろう。エヴァンスも、国王陛下であるライナスでさえもそれについて 一切言及をしないのだから。 エルファは未だに自分を解放してくれないライナスを睨み上げ、気丈にも言い放った。 「説明をください。こんなことされて、納得できない」 「説明?」 クツリと笑う相手は、どこまでも不遜で横柄だ。 わざとか少女を抱き上げる腕の高さを調整したかと思えば、不必要なほどその立派な 顔をエルファへと近づける。 本来なら赤面ものだ。だけど今は、そんなものに騙されてはたまらないと思う。なによりこんな 感情の激流にもまれた中で、ライナスとの顔の距離に屈している場合ではない。 そんな思いが表情に出ていたのか、若き国王はエルファの鼻先で笑った。 不意をつかれたといっていい。 あまりにも綺麗なその笑みに、エルファは束の間固まった。 幸か不幸か、その後に続いた自己中心的な彼の言葉に、現に引き戻されたのだが。 「そんなもの、おまえには必要ないだろう」 「ライナス!!」 ヴァンの鋭い恫喝に、ライナスはあくびれた様子もない。 むしろなじるような視線で、エルファを見下ろしていた。 (どうして私がそんな目で見られないといけないの…!?) エルファには責められる思いは皆無だ。確かに優柔不断だったかもしれないが、それでも断りの言葉 を紡ぎだせるほどの思考回復に要する時間を厭うたのは他ならぬライナスだというのに。 驚きと疑念が新たな感情として、少女の体の中で浮上する。だけれどもその思いは、二の次でいい。 今は、この事態の解明が優先事項だ。 「必要です。私は一介のメイド、しかも今日から勤務開始というはっきりいってそこらの一般庶民と かわらないわ。なのにどうして私はこんな似合いもしないドレスを着せられて、陛下に抱き上げられた まま夫婦の誓いの儀式を一方的にされないといけないんです?意味がわからない」 「だから、おまえはただ俺に任せておけばいいのだといったろう。それ以上に何の説明が必要だ」 苛立ったようなライナスの言葉に、エルファは眉をつりあげた。 日ごろから温厚な彼女にしては珍しい露骨な怒りの表現だったが、そんな少女相手にもライナスはまだ そんな事ばかりを言う。 苛立ちたいのはこちらのほうだというのに。 不満をあらわに声を張り上げようとしたエルファは、突如湧き上がった歓声に驚いて肩を竦めた。 バルコニーの外から聞こえる歓声は、エルファが入室する前から力強く鳴り響いている。 気にならないわけではなかったが、途中からそれ所ではなくなったから放っておいただけなのだ。 何事かとバルコニーのほうを見遣っても、はるか高い階に位置するこの部屋の内部からは、空模様 くらいしかわからない。 急速に這い上がる違和感は本能がエルファに与えた警告だったが、いかんせん彼女はいまだ 傍若無人な国王の腕の中である。 「参ったな。今はそれどころじゃないというのに」 意味もわからず慌てるエルファとは別の焦った声に少女は首を巡らせた。 外とライナスを見比べるエヴァンスの表情は、先ほどの柔和な一面などなかったかのように 険しい。 切れ者の宰相という位置に相応しいそれに思わず息を飲んだ。 「始めるぞ」 「でもライナス」 「―エヴァンス」 頭上で響いた声もまた、国王という名に恥じぬ覇者のそれで。 たった一言で、場の全てを掌握してしまったかのようだった。 「おまえもわかってるだろう。これ以上外野を待たせわけにはいかん。何より "式"はつつがなく終わるに越した事はない」 (し、き…?って、まさか…っ?!) エルファの身にあまる豪奢なドレス、少女を抱き上げたまま降ろさない陛下、無理やりされた 夫婦の誓い。未だに静まらない大きな歓声 怒濤のように過ぎ去った一連の出来事が、ようやくエルファの中で関連をもって処理される。 "式"という言葉に、今の自分の状況を唐突に理解した。 「どうやら状況が把握できたみたいだが、もう遅い。出るぞ」 「まって、いやっ!嫌です…っ!!」 ライナスの鍛え上げられた体の前で、エルファの捨て身の抵抗も功を奏さない。 大股で歩くライナスの歩幅では、ほんの数歩でバルコニーへと移動してしまうからだ。 大きな振動で相手の胸に顔を埋める形になってしまったエルファは、 最高に盛り上がる歓声と高らかになるファンファーレ、さらには首筋にあたる 暖かな陽光で今バルコニーにいるのだと理解した。 "国王陛下、万歳ー!" "妃殿下に祝福をー!" (なんで) 怖くて顔を上げられない。 あまりの熱気に物怖じたエルファを護るかのように更に強く抱きしめる国王陛下の姿に、 城へと集まった数多の貴族と国民がお祝いの言葉を口々に叫ぶ。 (どうして) 何もかもが非現実過ぎて、疑問符ばかりが頭に浮かぶ。 そんなエルファには、耳元に響いたライナスの声だけが、唯一の現実のように 思えた。 「臆するな、前を向け」 「覚悟さえ決めればいい。後は俺が、お前を必ず護るから」 「だから、黙って俺の伴侶になれ」 |